2013年4月21日日曜日

リソース 資源① 世界中に資源があるように、全ての人の内側には貴重な資源がある。

今回は、クラニオセイクラルのリソースという概念について、これまでの代替医療、またはセラピーの分野のお話から、ほんの少し経済の分野に話題を広げて見たいと思っています。
しかしながら、いちセラピストの未熟な経済についてのアイデアでありますため、もし、どなたか、経済のご専門の方がこのブログを目にされ、更なる名案または私に欠けている知識などを発見されました際には、メールなどにてご助言をいただけますと大変嬉しく思います。

それでは、表題にもあるリソース、資源という用語はどのようにクラニオセイクラル・バイオダイナミクスにおいて使われているのかを、すこしだけお話しますが、その前にクラニオセイクラルセラピーの代替医療における立ち位置についてのお話から始めたいと思います。

実は、クラニオセイクラルのセラピーでは、何らかの症状、不調を取り扱い、そこにアプローチをするということは行なわないのです。
クラニオセイクラルセラピーは、あくまでその生命体の健全さに対しての信頼を持ち、見守るというスタンスをとっている代替医療であり、直接、病気を取り扱うのとは少し意味合いが違っています。

医師は、病気を診断し、治療計画を立て、お薬を処方し、必要であれば、外科手術なども行う、いわば、病気を取り扱うことが出来る専門家であります。
しかし、私たちは病気の専門家ではない代わりに、むしろ、その命の持つ健全さに対しての専門家であるべきだと思っています。

その健全さについてでありますが、健全さと言う目に見えないエネルギーはクラニオセイクラルのセラピーでは様々な言い方で表現され、それぞれが身体上に現われるのを感じることが出来ます。
ブレスオブライフ、ポーテンシー、プライマリーレスピレーション、タイドなど、それぞれに、ここに今、命があるということを表現しているのです。
(これまでのブログの中で、ブレスオブライフはミッドライン①で、
プライマリーレスピレーションはその名のとおりプライマリーレスピレーション 原初の呼吸①にて少しご紹介させていただきました。)

そして、その健全さは、たとえその命が死に直面していたとしても存在すると考えています。
クラニオセイクラルには、イグニッション、点火のプロセスという概念があります。
この表現もクラニオセイクラルセラピーの専門用語の一種であり、
大まかに説明しますと、最初の生命への点火とは、受精の瞬間です。次は、母体内で心臓が動き始めるとき、最初の生命エネルギーへの点火が起こり、次に、肺呼吸を始めるとき、そして最後に、他界するときに命に火を灯し、最後のエネルギーを振り絞ってこの世を旅立つといわれています。
 

死の間際の点火だとしても、それは命がここにあるという証であり、そして、たとえ病に冒されていたとしても、死という変容を乗り越えていくだけの潜在的な命の逞しさを備えており、身体に何があっても、今ここに健全さは存在するという考えの元にある、セラピーであると言ってもよいと思います。

誤解を避けるために、一つ付け加えさせていただくのであれば、
医師の診断と治療が必要な方に対して、このセラピーが有効であると言いたいのではなくて、「私は、その命がどんな状況であっても、生きて今ここに存在することに、健全さを見出せるセラピストでありたいという意志を持っています。」という意味で、当然ながら、深刻な病を持つ方は、然るべき専門医の診断と治療が必要でありますし、私たちもそのように指導をされています。

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ということで、これからのお話は、私たちセラピストが扱える場合についてのリソースのお話です。前置きが長くなりましたが、ようやく、リソース、資源という用語についてのお話をいたします。

もしも、今ここにたとえば、不調や疾患があったとしても、それだけでは決してなく、私たちは、安定している部分、または落ち着いていて安らぎを感じる外的な要因、または内的な感覚を見出すことができます。
環境や持ち物、周囲の人間関係など外的な要素に安らぎと安心を見出せる場合や、
自分の内側の感覚、これまでの経験や、内的な感情や、感覚や記憶などに安定感を持つことが出来る場合などがあります。
これらの不調や疾患ではない、安定している部分とそれを引き起こす要因をリソースと呼んでいます。
そのリソースを具体的にセッションで使用する時、その感覚が、どこかの身体の感覚と結びついている場合は、そこから安定感のサポートを得られ、神経系のバランスや自己調整を助けることが出来ます。

この様に、不調にフォーカスすることをする代わりに、より安定している部分や、肯定的に感じる部分を見出していくことがセッションの中でとても有効であるため、セッションの前に今日のリソースは何かというところを確認してからのスタートになることが多いと思われます。リソースはセッションの最中でも変わることがあり、セッションの度に、必要であれば、セッション中にでも改めてリソースの確認をすることは有効だと考えられています。

ここまでが、実際のクラニオセイクラルのワークで使われるリソースの役割です。

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さて、ここからは、またクラニオセイクラルの専門書には記載されていない、私の個人的なリソースの理解についてのお話になり、独自の解釈で経済のお話まで飛んで行きたいと思います。

では、リソース資源とは英語でresourceと綴ります。
re-という接頭語を切り離して見ると、ソースsourceという言葉になります。

sourceとは、ラテン語surgere立ち上がる、源を発するという意味の言葉が語源で、「発生する基点」という意味だそうです。
そのほか、物事の源、源泉、根源などの発生の源を意味し、水源地、や湧き水、また物理学においては、電気、光、音、熱、放射線などが発生する源を表すと記載されていました。
(ジーニアス英和大辞典参照)

sourceの私の個人的なイメージとしまして、万が一、温泉や油田を掘り当ててしまったとしたら、source発生の基点を掘り当てた場面を想像することが出来ます。
それは、終わることなく、天然のお湯や、油が湧き出てくるかのようなイメージです。

そして、2011年の福島第一原子力発電所の爆発事故や、チェルノブイリ原発事故、広島、長崎の原子力爆弾の投下などにより、大地が焼け爛れたにもかかわらず、母なる地球は、たとえ痛めつけられても、内側から際限の無い大地のぬくもりを放出し続け、木々や人々に癒しや栄養を与え続けるという無限の暖かさもsourceのイメージの一つです。

また、芸術の分野において、たとえば、高山に舞い降りる雪の結晶の完璧なデザインを見て、何か神がかり的な芸術の発生の源泉から現われているというような、とてつもなくスケールの大きい神の作品を連想し、終わりない美の存在や完璧なアイデアの宝庫を感じることも出来ます。

さらには、私たちが所有しているこの人体に関しましても、知れば知るほど、その完璧な設計に驚かざるを得ないと実感するときに、そして未知なる医学的真実が他にもあると想定するときに、私たちも神の作った完璧な機能を持つ一つの芸術なのだと捉えられ、この人体もsourceの一つのように感じられるのです。

そして、リソースresource(資源)は、このsource(源)から切り離され、(re-という接頭語は分離を表すそうです。)全ての発生の源から、一人ひとりにその命の使命や美しさを全うするためのツール、つまり資源であるリソースが渡されていると私は解釈しているのです。

たとえば、無限に放出する源の中から、たくさんの生命体が分離して、一人ひとりに役割と、必要なツールが授かるかのようなイメージです。

全てを兼ね備えた源泉から、たくさんの役割をもつ人々が放出されるというイメージとも感じます。

ある人は、芸術を志すために、繊細な心と鋭い着眼力を持ち、ある人は政治を志すために、正義感と指導力を持ち、ある人は、発明をするために、創意工夫の能力やユーモアセンスを与えられるといったように。
与えられるという表現がいいのかわかりませんが、自分自身で選択してツールを開発することも新しいリソースの開発につながると思っています。

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そこでです。
なぜ、経済のお話につながるのかと言うと、そもそも日本は資源が全く無い国でした。しかしながら、第二次世界大戦後、多くの日本企業の創始者が組織を作り、重厚長大時代を迎えました。
手先が器用で職人気質でもある日本人のクリエイター達の創造したmade in Japan productsはたちまち海外のマーケットシェアーを高めていき、日本は驚くべき経済成長を達成しました。
世界からは、日本の戦後の復興のみならず、目覚しい経済の成長振りに驚きのまなざしで見られていた時期がありました。
しかし残念ながら、バブル経済がはじけた頃をピークに状況は一変し、現在長く続く、経済の低迷の中を暗中模索しています。

時々、社会保険庁から送られてくる、あなたの年金のお知らせにも、ぞっとするような価格の年金額のお知らせが届きます。
国民年金を支払わない若者たちが増えているのも、理解できるような気がします。

日本人はとても働き者で優秀だといわれています。
しかし、私は、30代から50代くらいの働き盛りの人たちが、本当にご自分の天性の才能や使命を全うしていて、それが世の中に反映されているのかどうかと言うところに大きく疑問を持っているのです。
世の中自体が、保守的になり、新しい才能を受け入れることが困難なのかもしれませんし、一人ひとりが、大きく挑戦するリスクを背負うよりは現状維持を選択せざるを得ない時代なのかもしれません。
だからといって、バブル経済の頃に、一人ひとりが自分自身の才能を開花させていたかと言うとそういうわけでは無いようにも思いますので、時代に関わらず、自分自身のリソースを開発させていくことは、外的な要因にはことさら関係は無く、その個人の在り方によるとも感じられます。

もし、今現在、たとえば、日本の国民の半分の一人ひとりのヒューマンリソース、つまり個人のリソースが暗闇に埋もれてしまっているのであれば、そのリソースを開発し、それが発揮された時には、ぞっとするような年金額ではなくなるでしょう。
日本は資源の無い国だからこそ、人の才能を資源とした社会を作っていくことで、
全体としてのヒューマンリソース、人事を整え、そして発揮していくことが大切なのではないでしょうか。

戦後の復興から立ち上がることの出来た、私たち日本人の大先輩達が達成した事を、私たちの世代が、もう一度成し得ることは出来るのではないでしょうか。
もちろん、個人のリソースが発展途上の状況であるのは私も同じであり、だからこそ、クラニオセイクラルを通して、自分自身や同世代の仲間達のリソースを耕すことに貢献ができたらと願っています。

そして、もし、これをお読みくださっているあなたが、ご自分のリソース、無限の創造の源から分けられた、天賦の才能をさらに磨き、自己を啓蒙していかれたいと思われていたら、クラニオセイクラルのセッションがサポートになると信じています。

私は、データー入力をするために生まれてきたんじゃない!と感じておられる方。
やりたいことがあるが、自分の内側の直感にしたがっていいのかわからない!と感じておられる方。
セッションを受けることで、ご自分自身の内側から自ら答えを見出すためのサポートが出来ると信じています。

クラニオセイクラルのセッションは、病気へのアプローチではなく、その方の命の輝きへのアプローチであります。
人は病気から学ぶことも出来ますが、まず自分が自分らしくあることを大前提とした療術でもあり、
ご自分の内側に眠る宝の宝庫から学び得ることをサポートすることが出来るのです。

ここまでお読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年4月2日火曜日

記憶からのメッセージ ホイットニー・ヒューストンさんの「the greatest love of all」

実はここ最近、特に機嫌が良かったというわけでもないのに、時々、鼻歌を歌っていました。
心の中にどこかで聞いたことがあるメロディーが浮かんでくるのですが、誰の曲か、どんなタイトルか、しばらく思い出せずにいました。浮かんでくる歌詞を時々思い起こしたりして、しばらく考えたりしながら、ようやく、先日、思い出しました。

今は亡き、ホイットニー・ヒューストンさんの「the greatest love of all」という曲でした。まずは、このタイトルを歌いながら先に思い出し、ようやくすっきりしました。

ホイットニー・ヒューストン the greatest love of all

私は彼女の大ファンであったというわけでもなかったのですが、一度だけ、ケビン・コスナーさんと共演された、「ボディーガード」という映画を見たことがあり、その映画のサウンドトラック版のCDも、もしかしたら一緒に購入していて、その中にあった一曲かもしれない、というくらいの、ハッキリしないような記憶のなかにある曲でした。

しかし、ボディーガードという映画にはとても感動しました。
映画の内容と、彼女の歌がマッチしていて、スタイル抜群のホイットニーさんを劇場で見たときは、アフリカンアメリカンの女性は、こんなに綺麗なんだなぁ、とうっとりさせられましたし、ケビン・コスナーさんも、「ダンス・ウイズ・ウルブス」の頃より、少し円熟味帯びていて、お二人とも絶好調の時期に撮影された作品だったと思います。内容は、異人種間の愛、そして、スーパースターとボディーガードという関係の中で、踏み込んではいけない愛に踏み込んでしまうという内容のラブストーリーです。

ホイットニーさんの役は、現実の彼女と同じ、スーパースターの役。トップスターの孤独を持ちながらも、気丈にご自分の高みまで上り詰めていくという役柄。そして、ケビン・コスナーさんは、ストイックで隙を見せないボディーガードという役柄です。

私が思い出したこの曲も、ホイットニーさんの役柄、実際のスーパースターである彼女の内面が反映されているのではないか?とも思ったりしています。

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「The greatest love of all」の歌詞をここにご紹介します。

I believe the children are our future
Teach them well and let them lead the way
Show them all the beauty they possess inside.
Give them a sense of pride to make it easier.
Let the children’s laughter remind us how we used to be.
子供達は私たちの未来。
よく教えてやり、導いてやり、
子供達の内側に持っている全ての美しさをみせてあげて、
そして、彼らに自分を誇りに思うことを教えてあげることが、
子供達の未来を切り開くことを助けるでしょう。
子供達の笑い声が、私たちが昔子供であったということを思いこさせてくれる。

Everybody is searching for a hero.
People need someone to look up to.
I never found anyone who fulfill my needs
A lonely place to be and so I learned to depend on me,
I decide long ago never to walk in anyone’s shadows.
If I fail, If I succeed at least I live as I believe
みんなヒーローを探している。
尊敬できる誰かが必要だから。
でも、私は、私を満たしてくれるような人を見つけ出せなかった。
寂しいこともあったけれど、私は自分自身を頼るということを学んだの。
私はずっと前に、他の誰かの面影を生きないと決めたの。
もし失敗しても、成功しても、すくなくとも、それは私が信じるように生きるということだから。

No matter what they take from me they can’t take away my dignity.
Because the greatest love of all is happening to me
I found the greatest love inside of me.
The greatest love of all is easy to achieve.
Learning to love yourself, it is the greatest of all
たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。
なぜなら、私の中で、全ての中で最も偉大な愛が生まれているから。
私は、最も偉大な愛を私自身の内側で見つけたの。
この世で最も大きな愛を見つけることは、簡単に達成できる。
自分自身を愛すること、それを学ぶことが何より一番尊いことだから。

And if by chance that special place
that you’ve been dreaming of lead you to a lonely place,
Find your strength in love.
そして万が一、あなたがずっと夢見ていた事が、思わぬ結果になってしまっても、
あなた自身が、愛の中にたたずむことで、強さを見出すことが出来るから。

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英語が得意な方は、原文でお読みください。かなりの意訳になってしまってお恥ずかしい限りです・・・。

じっくりと訳して見て、こんな内容だったのだと再認識したと共に、私は、なぜ20年も前に聞いた、うろ覚えの曲を思い出したのだろうか?という疑問が湧きました。

そもそも、この歌詞にあるように、
「たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。」
こんなこと、言ってみたいですよ。こんなこと言えるのは、ホイットニーさんだからでしょ。と言いたくなる気持ちを抑えつつ、このdignityという言葉、実は、私はとても好きな単語です。
確か、オバマ大統領も就任演説でdignityという言葉を使っていたような気がします。

日本には、謙遜を美徳とする文化があるため、尊厳や自尊心などという単語を頻繁に使うのをためらいがちになります。あえて尊厳や自尊心という言葉以外の日本語でdignityのイメージを表現をするのであれば、
「私はお天道様に顔向けできないような生き方をしてこなかったです!」
そう胸をはって、選手宣誓のように手を挙げながら、公に自分の誠実さを宣言するような、そんな感覚に近いようなイメージを持っています。
実際には、そのような光景はそれこそ選挙活動のような場面以外では、見たことがないのですが・・・。

そして、もっとも偉大な愛という表現について、これもまたうろ覚えで恐縮なのですが、多分、ひろさちやさんの本だったか…、もしかしたら五木寛之さんの本だったかも…?いや、もしや遠藤周作さんか…?とも思うのですが、このような記述があったのを覚えています。

これまで日本には、愛という言葉は無かった。愛という言葉自体は、ミシンやオルガンなどと同じような舶来品と同じであり、近代になって西洋社会から輸入した単語である。
古来日本の文化の中でそれに対応する言葉は、慈悲であり、または、より大衆的な表現を使うと人情という言葉である。

たしか、このような内容であったのを覚えています。愛とはキリスト教文化圏の表現なのでしょうか?その中でも、とても高尚な表現の一つなのでしょうか?
神学をきちんと学んでいる訳ではないので、よくわからないのですが、
愛といえば、西洋人は違和感なくLoveとお手紙の最後に書いてみたり、またチョコレート大好き!と言う場合もI love chocolate!と言ってみたり、私たちが使う愛とは違うところで、しかもかなりに頻繁にloveという言葉が使われているような気がします。

しかし、仏教や神道の文化的背景のある日本で育った、コテコテの日本人である私の勝手な解釈ですが、日本語の「慈悲」と言う表現や、英語であればmercyのような表現の場合は、もっと壮大で、私たち人間が許すことの出来ないような罪も穢れも全て許すような、というよりはじめから許すという概念すら存在しないくらいスケールの神がかりな包容力、大きな懐を感じ、頻繁に常用されている愛という単語とは違ったイメージを私は個人的に持っています。

私の勝手な理解としては、昨今、使われている愛、loveは、神でもなんでもない生身の不完全な人間がする試みで、
慈悲、mercyは、神の包容力。人間の思考や理解を超えた神がかり的な広大な意識。
そう、自分勝手な解釈をしています。
そもそもLoveは、名詞と動詞の両方の活用があり、mercyは動詞にはならないことからも、動詞として実行するところに、人間の学習の余地が多分にあるという事なのかもしれません。

クラニオセイクラル、バイオダイナミクスにたとえるならば、愛、loveは、プライマリレスピレーション、原初の呼吸、
慈悲、mercyは、ダイナミックスティルネスというイメージがします。
ダイナミックスティルネスのお話は一度もしていませんが、またいずれ話題にできたらと思っています。

私のゴシップ知識が正しければ、ホイットニーさんが亡くなられた事を知った、元夫のボビー・ブラウンさんは、ステージの上で泣き崩れ、”I love you, Whitney”と言ったそうです。
正直、私は驚きました。
泣くほど愛していたのであれば、どうして彼女にハードドラッグを薦めたり暴力を振るったりしたのでしょうか?
真相も知らないくせに、全くもって、大きなお世話な話ですが、やっぱり、私も女性なので思わず、女性の味方をしてしまいます。

しかし、お二人がどんな関係性であったとしても、ボビー・ブラウンさんは、一人の不完全な人間として、ホイットニーさんを彼なりに不完全な愛し方で、本当に愛していたのかもしれないとそう思います。彼だけではなく、みんな人間は紆余曲折し、少しずつ成長しながら、愛を学んでいる途中なのかもしれません。

ですから、私も一人の不完全な人間として、ボビーさんを批判する立場にはないのです。

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今、ここに生きている私は、私の両親の愛の結晶だと、そう思いたいですし、どんな子供も、愛されて歓迎されてこの世に生をうけるべきだと私は思っています。

しかし、私の勝手な"子供は愛されるべき"、という考えが、この人間界の中で当然である現実の状態であるのならば、セラピーはいらないでしょう。

親から子供へ伝わっていく愛は、それこそ、人間らしく伝えられていき、やがて、その子供も巣立ち、自分なりに人を愛していくのでしょう。

その循環の多くは家族を基軸に継承され続いていくのでしょうけれも、残念ながら、人間の不完全さがあるがために、時に愛情不足でその愛情循環が滞ってしまうことが無いわけでもないと思います。

また、愛情不足で不完全だからこそ、歌の歌詞の通り、生涯かかって自分自らの内なる愛に満ち溢れることを学んでいく必要があるというメッセージなのかもしれません。

たとえば継承されてきた愛の形が、たとえば、いびつに見えたとしても、それでも私も含めて関わる人達はそれぞれ不完全な人間として、その時のベストを尽くしていたと分かることが大切のように思います。

そして、私は自分自身の愛に対するdignity、お天道様に顔向けできるように、切磋琢磨しながら不完全ながらも、時に痛い思いをしながらも、ちゃんと学んでいます!と胸を張っていられる自分でいたいからこそ、この歌のメロディが何処からか聞こえてきたのかもしれません。

初めての日記的なブログです。
長文になりましたが、お読みくださりありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体