こないだまで、半袖を着ていたような気がしますが、
すっかり秋冬のお洋服がしっくりする今日この頃、いかがお過ごしですか?
毎年、秋にクラニオセイクラルの先生が来日されていて、
今年も、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの新しい学びをさせていただきました。
前年が、死について、
そして、今年が、命の始まりについて
というかなり、大きなテーマでして、
もう少し、小さな枠の中の、組織、筋肉、筋膜、臓器、靭帯、血管、
のような、細部の学びからはいるテーマの時にあるような
テクニカルなお話が、比較的、少ない会でした。
このテクニカルなお話があると、勉強した感が満載で、
なんとなく、知識を増やした後、独特の、満足感があるのですが、
今回は、非常に大きな、普遍的な生命力についての学びという、
手に取りたくても、手にとりずらい、
ブォワーーンとした、広大な何かの学びでして、
これこれを、学びました。
とスッキリ言い難いものです・・・。
しかし、研修後半くらいになると、
あー、このことなんだよ、
このこと。
そうそう、毎回、同じところにたどり着くんだよな。
そう、このこと。
という場所にたどり着くのでした・・・。
あくまで、私の解釈ですが、
今日は、その、
このことについて、少し、書いてみたいと思います。
***** さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる。 *****
何年か前に話題になった本に、
エックハルト・トールさんの
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる 』
という本があります。
原題が『The Power of Now』です。
この本の、第1章の最初に紹介されていた、
逸話のような、たとえ話のような内容があったのですが、
この内容が、このことにとっても近いと
私が、個人的に思ったのです。
もちろん、先生は、このことですよ。
とは、おっしゃっていませんが、
今日は、私が、個人的に、勝手に、腑に落ちた
その感覚を少し、ご紹介したいと思います。
その内容とは・・・。
***** 第1章の初めの内容はこちら *****
一人の物乞いが、30年以上も、通りの横に座り続けていた。
ある日、そこを通りかかった通行人に、「小銭を下さい。」とつぶやいて、
古い野球帽を、機械的に差し出した。
通行人は、「あなたにあげるものは、何も持っていないよ。」といい、
「あなたは、何の上に、座っているの?」と尋ねた。
物乞いは、こう答えた。
「これは、何でもないものだよ。
私が覚えている限り、これはただの古い箱だよ。」
通行人は、「今まで、その中を見たことがあるの?」と物乞いに聞いた。
物乞いは、「ないよ。何が言いたいんだい? この中には、何もないよ。」
しかし、通行人は、「中を、みてごらんよ!」と強く言った。
物乞いは、何とかして、その蓋を、てこで開けてみると、
そこには、驚いたことに、信じられないことに、そして、意気揚々としながら、
彼は、その箱が、金で埋め尽くされているのを見たのだった!
・・・という内容です。
***** 普遍的な生命のダイナミクス *****
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスを学んだり、
施術を受けたりすることによって、
何か、特別な能力がつくという訳ではなく、
むしろ、本来、持っていたものを使えるようになると
中満整体では考えています。
物乞いが、30年以上もの間、座り続けていた古い椅子の中にあった、金は、
私たちが、いかに、私たちを支えてくれている生命力に気が付かず、
ないもののように思っているかを
表しているようにも感じます。
そして、あるきっかけで、自分自身の内側を静かに感じてみると、
やはり、そこには、金ほどの価値ある、生命力の存在と
そして、気が付かないうちに、いつも、いつも、
愛に満たされていたのだということを、
痛感するのでしょう。
私達、誰もが、この金(生命や愛)によって、支えられていて、
たとえ、私達が、自分の心や身体を、ないがしろにしたとしても、
それでも、知らない間に、癒し、修復し、滋養を与えられ、
良きに計らってくれていたのかということを
毎回の研修で、知っては、気が付き、
そして、時に、それに気が付くことは、
難しいことでもあるということを、とても、とても、深く感じました。
何回、角度を変えて、表現の仕方を変えて、
また、同じ学びにたどり着くということを、繰り返していますが、
まだまだ、学びは、終わらないとすら、感じています。
命って、本当に奥が深いです。
・・・という感じが、このことへの私の気づきですが、
来年の研修は、もう少し、テクニカルな内容になる模様です。
でも、やっぱり、今回のように、
同じところにたどり着くような予感がしています★
中満整体