2013年5月24日金曜日

リソース 資源② やや積極的解釈 人の内側にある、満ち溢れて枯れない源泉

以前のリソースにまつわるブログに引き続き、今回また、リソースに対する私の思いを書きたいと思います。

前のブログリソース資源①で、ご紹介しました、クラニオセイクラルのセッションにおける、リソースとは、

「安定感や落ち着いていて安らぎを感じる内的、外的要因であり、それが具体的に身体の感覚と結びついている場合は、そこからサポートを得られ、神経系のバランスや自己調整を助けることが出来ます。」

と、このように書きましたが、そのリソースを思い起こさせる、かつて見た事のある光景を思い出しましたので、そこからまたリソースのお話をしたいと思います。

私は、子供の頃、某歯科大学病院の小児科に通っていたのですが、受付には必ずぬいぐるみなどが置いてありました。
そして、成人してから通った歯科クリニックにも、口腔を照らすライトのすぐ横に小さなぬいぐるみがくっついていました。

歯科治療が嫌いな子供の持つ、恐怖に満ちた歯科治療のイメージを払拭しようとする試みなのでしょうか?

または、注射や、歯を削るなどの恐怖感をそのぬいぐるみの可愛らしさが拭い取り、暴れたり叫んだりする子供をリラックスさせ、少しでも安定した状態の中で、治療をしやすくしようという事なのでしょうか?

もし、そうだったとして、なおかつ、それがその通りに、子供にとって上手く作用した場合は、そのぬいぐるみは、まさにリソースとしての役割を果たしたということになります。

つまり、このぬいぐるみというリソースが、注射を打たれ、歯は削られるなどという苦痛、または危機的な状況からサバイバルするために、役に立ったということです。

この状況は、クラニオセイクラルのセッションに共通していている部分があります。

トラウマタイズされてしまった身体の組織やエネルギーが、変容していくプロセスにおいて、私たちセラピストは、トラウマの痕跡を持ち、苦痛や危機的な記憶を持つ組織と、身体全体を、安定の場と共に保持することが重要な要素となります。

ただでさえトラウマタイズされている組織が、万が一、またトラウマになってしまうかもしれないというような、危機的な状況の中にまた置かれてしまえば、解放などありえないのですから、その場合は、受ける方のシステム自体が、おのずと変容に向かうプロセスを進めるはずがないでしょう。

だからこそ、セッションの前に、安定感をもたらすリソースを確認します。

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それらを踏まえた上で、今回は、少し積極的なリソースの解釈になります。

先ほどの話では、ぬいぐるみは、歯科治療をしやすくしてくれました。
ぬいぐるみは、安心感をくれて、治療しやすい状況を作ったという功績はあるものの、ぬいぐるみによって虫歯が治ったわけではなく、あくまで、ぬいぐるみはサポートです。

セッション中には、さまざまことが起こります。
実際に、セッションを必要とする方は、安定をもたらす身体的な部位など無いところからのスタートとなることもあろうかと思います。
セッションを有意義なものにするためも、安定感を感じられるのであれば、ぬいぐるみでも何でも使ったらいいと思うのです。そして時にセラピストである私自身がリソースの役割になってもいいと思うのです。

しかし、外的な要因である、ぬいぐるみやセラピスト無しでも、今、ここにある状態になり、安心感や肯定的な身体感覚とつながり、さらに最終的には、いつでも自在にその状態に意図してなれることが、とても大切なことであり、それがまさにセッションを重ねる事の恩恵ではないかと思っています。

そして、その状態をリソース化された状態と私は解釈しています。

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さらに以前のブログリソース資源①では、
resourceリソース資源とは、
もともとつながっていた無限に発生するsource源、基点から、
re-(接頭語で分離を意味する)切り離され、
一人ひとりに与えられた、命の使命や美しさと書きました。

つまり、切り離されている、ということは、リソースに意識的にならないと、ソースsourceから切り離されたままになりやすいということでもあると思うのです。

意識的にならないと、財宝である、リソース資源を見失いやすいということでもあると思っています。

たとえば、受動的な形で、周囲の人に自分自身の何かしらの資質を褒められたり認められたとしても、そこに自分自身の喜び、そして満たされた感覚や感情がなければ、リソースとして成立しないでしょう。

だからこそ、自らが能動的に、積極的に、Source、無限の創造の泉に自分から歩み寄って、自分に与えられたリソース資源を、何度でも、何度でも、確かめることがとても大切だと思います。

接頭語のre-をもう一度、辞書にて調べて見ると、
離れるという意味もありましたが、再び、新たに、繰り返して、という意味もありました。

リソースresource資源とは、ソースsource源泉から一度離れて、独立した個人に授かるもの、という解釈も出来ますし、
再び、ソースsource源泉に歩み寄り、その都度、新たに、自らに与えられたリソースを確認する、
そして、繰り返して、ソースsourceからの恩恵を受け続けることが出来る。
そのように解釈することも出来ます。

それをサポートすることが、クラニオセイクラルセラピーであり、瞑想であり、自分をみつめるということだと思っています。

(ジーニアス英和大辞典参照)

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以前のブログ、ニュートラル② 関係性のニュートラルでもお話したのですが、家庭や社会での人間関係のニュートラルが崩れること、そして国家間の関係性のニュートラルが崩れるということは、このリソースのあり方に大きく関わっていると思っています。

そもそも、戦争が勃発する要因の一つとして、自国にないリソース資源を搾取するために、侵略をするという背景が考えられます。

つまり、"自分達は持っていない。だからどこかから奪い取らねばならない。"という考えのもとに、国家間の争いが発生してきました。

それと同じようなことが、個人のレベルで起きると思っています。

だからと言って、多くの人は、素敵なお宅を見て、自分にはないからという理由で、強盗に入ったりするわけないでしょうけれども、

例えば、お金や職場環境、社会的地位や立場などを通しながら、間接的に、いずれ物質レベルになりゆく奪い合いは頻繁に起きています。

また無意識的なエネルギーレベルで、個人と個人が関係性のニュートラルを崩しながらエネルギーを奪い合う背景が、考えられます。

競争によって、勝つものと負けるものが作られるこの民主主義という構造からしても、それらは当然、発生しやすいと考えられます。

自分は持っていない、奪い取らねばならないという状態は、リソースから切り離されている状態、つまり、安心感の無い、不安な状態であるのです。

1995年に出版されました、『聖なる予言実践ガイド』より、権力闘争と言われるエネルギーの奪い合いについての文章を引用します。


権力闘争

『人間はほとんどの場合、聖なるエネルギーの源から切り離されており、そのために無力感と不安感を感じている。エネルギーを得るために、私たちは他人の注意を無理矢理自分に引きつけて、エネルギーを盗もうとしがちである。こうしてうまく他人を支配できた時には、私たちは自分が強くなったように感じるが、相手のほうは力を失ったように感じ、しばしばそれを取り戻そうと戦いを挑んでくるものだ。限られたエネルギーを奪い合う競争こそ、人々の間のあらゆる争いの原因である。』


そもそも、自分は持っていない。というのは、このクラニオセイクラル、バイオダイナミクスの理論において、まさに幻想であると言えます。

以前のブログ、ミッドライン①でご紹介した、受精卵だった頃、原始線条が現れる際の比喩表現、ブレスオブライフ(命の息吹)のお話でも触れましたが、今、この地球上に命がある全ての人は、それぞれ神様によって命の息吹が吹きかけられているのです。

原始線条がなければ、背骨もないですし、中枢神経もなく、生きてここに存在できるわけ無いはずです。

つまり、私たち人間は全員、受精卵の頃にすでに、その生命の青写真、個性や、誕生する使命、そして命の輝きが与えられているのです。

奪い合いに巻き込まれる事なく、いつでもリソースに着地できる事が、自分自身のリソースを活かし、また、周囲の人や社会に還元できるという好循環をうみだすのだと思います。

そして、だからこそ、神様でも何でもない、私達人間は、何度でも、何度でも自分の内なるリソースに歩み寄り、確かめる事が必要があり、リソース化とは、自らの、そして他者の幸福への最低限の責任でもあるとも思います。

もっとリソースについては書きたいことがたくさんありますが、長くなってしまったので、一旦ここで終わりたいと思います。
長文にお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年5月5日日曜日

プレゼンス、それは贈り物。今この瞬間に存在する、壮大なプレゼント。

プレゼンスであること。今この瞬間に存在すること。
これも、初期に教わる、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの本質であり、欠くことのできない必須の教えです。そして、生涯をかけるに値する、奥行きのある学びです。

あまりにも壮大なテーマであるため、先延ばしにしてきたのですが、少し、このプレゼンスに対する私の思いを書いてみようと思います。一回では全て書けなくても、段階的に、これから先、私の理解が変化していきながら、その時の私にとってのプレゼンスのお話ができたらと思っています。
寛容におつきあいいただけますと、とてもうれしく思います。

もし、私がクラニオセイクラルに出逢っていなかったとしたら、今、この瞬間に存在することは当たり前のことであり、願っても昨日に戻ることは出来ませんので、難しい学びだとは思うはずがないと思うのです。しかし、クラニオセイクラルを学ぶにつれて、今にいることはそんなに簡単なことではないと身をもって体験してきました。

以前のブログ、バウンダリー①でもご紹介しておりますが、実際、脳は過去からの記憶で今を判断する機能があり、今をありのままに受け止めることは簡単ではない事でした。

さらに、人は、あまりにも苦痛が続くと希望的な観測に基づく未来にも飛んで行く事もあるように思います。
私にも身に覚えが多少ありますが、例えば、“採らぬ狸の皮算用“ということわざがあります。まだ仕留めてもいない狸の皮がいくらで売れるのかを計算し始め、しかも、その稼ぎで何を得ようかと考え始めるような状態は、すでに今にいない状況でもあり、まさにプレゼンスの状態から外れてしまっています。

しかし、それでも、人は、今に在る事ができると信じています。

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プレゼンスについて学んだ以前のセミナーでの、とても象徴的なエピソードを少しご紹介したいと思います。

そのまえに、
先生が外国人の方であるために、その時、言葉の行き違いが少しあったかもしれないので、
プレゼンスとプレゼントの言葉の違いについてお話をします。

同じように現在を意味する2つの単語、プレゼンスとプレゼントがあります。
プレゼンスpresenceは名詞形で、主に、今存在することという意味ですが、
プレゼントpresentは形容詞と名詞形があります。
形容詞として、The present situation“現在の状況”だとか、
The present moment ”現在の時点“のように使われ、名詞を修飾する形です。
名詞としては、presentで、現在を表すそうです。

まず、最初に先生が生徒たちにこのように質問をしました。
「プレゼントとは何ですか?」
と尋ねました。すると一人の生徒は、
「贈り物です。」
と答えたのです。

先生は、プレゼントpresent名詞形での現在として質問をしたのだと思います。
しかし、その生徒は、もしかしたら、バースデイプレゼント、だとかクリスマスプレゼントとかのプレゼントpresent (現在を意味するpresentと同じ綴り)と間違えて答えていたのかもしれません。
先生も、その回答を聞いた瞬間、それはプレゼント違いだよ、と途中まで、おっしゃいながら、言葉を噤みました。そして、その後少し立ち止まり、深く頷きながら、納得したかのように、
「あーそうだったのかー。」
とおっしゃいました。
先生は、その“贈り物です”という回答は、間違っていないのだと、しばらく考えて実感されたのでしょう。
その生徒の答えは、私達にとっても、偶然がもたらしたプレゼンスへの理解のヒントになりました。

そして、人としても、セラピストとしても、今に存在することは、自分自身にとっても、周りに対しても多くの贈り物を与えられるようなものなのかもしれない。とその時の私は理解しました。

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私は、ヨガを習っています。そして、時々、お寺の和尚さまと一緒に座禅をしたり、説法を聞いたりすることがあります。特に、どこかの宗派にこだわっているのではなく、ご縁があったお寺に足を運び、機会があれば、お話も聞くという程度で、本格的に修行をするなどの大掛かりな取り組みではありません。

その時に出会った、ヨガの先生のお話や、和尚さまのお話が、ずいぶんプレゼンスである状態を得るための助けになっていたように思いますので、その内容を含めて、すこしお話が出来たらと思います。

先ほど、プレゼンスの意味は、今ここに存在することと書きましたが、もう少し、はっきりと理解するために、辞書にて調べてみました。
プレゼンスとはPresenceと綴り、多義の単語であり、たくさんの定義が記載されていました。
他にも定義がありましたが、大きく分けるとこの2つに分類できました。

1、存在すること。今ここにいること。あること。
2、堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力

まず、1番目の定義、“存在すること、今ここにいること。あること。”について。

ヨガをやっているときは、ある種の瞑想状態になります。
先生は、このようにおっしゃいました。

「ヨガは形ではないのです。今、ここにいるということなのです。私たちの思考は、過去に言ったり、未来に行ったりしてしまいます。何度も何度も繰り返し同じ型(アーサナ)をとりながら、思考がとまり、そこに呼吸が流れ、自然に体が呼吸に乗れる状態になり、私たちは今ここにあることができます。」

ヨガを始めた頃は、基本的な型を学ぶことで精一杯でした。本当に最近ですが、この先生の教えの意味がわかりつつあるのです。それは、クラニオセイクラルに本当によく似ています。
思考をとめることは、今にあることの大きな手助けになります。
さらに、通常の肺呼吸を繰り返しながら、やがて原初の呼吸を感じていくプロセスは、クラニオセイクラルのセッションと類似した場すら感じることがあります。

そしてまた、禅の和尚さまはこのようにおっしゃっていました。
「瞑想は、積み上げ方の勉強ではなく、今、座ったかどうかなのです。
20年座ってきたとしても、たった今座ったかどうか。それだけです。」

私はまだ上手に座れませんが、和尚さまは、あぐらのように座り、さらに両方の足の裏を天井側にむけて座っています。そしてその座る姿は美しく落ち着いていて、深い安定感があります。座るための体を作るために10年はかかるとおっしゃっておられましたので、そうとうな修行をしてこられたことと思います。しかし、驚いたことに、積み上げ方の勉強ではないとおっしゃるのです。
過去の経験ではなく、今この瞬間の大切さを私たちに教えて下さろうとしておられたように思います。
経験を積むという表現には、熟練を表すプラスの意味があると思っていましたが、禅においては、経験も過去の一つなのでしょう。

次に、2つめの“堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力”という定義について。

先ほどの和尚さまではない、別の禅寺で出逢った和尚さまは、瞑想をするための座り方についてこのように説明されました。
「座り方は、仏像を手本にしてください。」
百聞は一見にしかず、とはこのことではないでしょうか、仏像は、本当に落ち着いていて、しかも堂々としていて、貫禄を感じます。
座り続け、今にあり続ける姿勢の模範とも言えます。

ヨガの練習においても、上手く原初の呼吸に乗れると、肩などに入っていた力みが自然に抜けるようになります。仏像は、どう見ても、肩に余計な力みが入っているようには見えません。
生き生きと命がここにあるようなライブ感すら感じることすらあります。
私のクラニオセイクラルのセッション中の姿勢の理想像はまさに仏像です。
ミッドラインがまっすぐ天と地に伸びていて、美しい姿勢です。

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この様に、私はまさにプレゼンスである状態への学びの途中であります。
ごく自然な形でその学びは、瞑想への学びと変化しました。
そして、その学びの途中で、見て感じてきたその風景には、たくさんの贈り物がありました。

普段通っていた道で、花や果実を見つけて嬉しくなるときのような・・・。
そして、普段の生活では見る事のできない海底の色とりどりの美しい風景の中にいるかのような・・・。
私の言葉では、その感覚を上手く表現できないので、その代わりに、oshoというインドの神秘家の言葉を引用します。


『独りであることを愛せないなら、恋人しか愛せないなら、まだ本当の成熟ではない。そのとき、愛することさえ誰かに依存している。誰かがいなければならない。そうして初めて、愛することが出来る。こういう愛情はまったく表面的なものでしかありえない。それは自己の本性ではない。』

『瞑想すれば、遅かれ早かれ愛に出会う。深く瞑想すれば、遅かれ早かれ、かつて知らなかったほどの大きな愛が生まれるのを感じるようになる。あなたの存在に新しい質。新しい扉が開く。
静寂という精妙な質が入り込んでいる。思考が消え失せ、すき間が現われる。静寂―。』
                                         新瞑想法入門より引用

実は、私を導いてくださった、クラニオセイクラルの先生方は、皆このoshoによって導かれています。
私は先生方がどのように、今在るということを学ばれたかを知りたかったのか、この本はその足跡をたどるかのように読んだoshoの本の中の一冊です。
私が学生のときに、oshoはすでに他界されており、私は本でしか知りませんが、多くのoshoの弟子、サニヤシン達は瞑想を基礎とした様々なボディーワーカーとして国内外で活躍されています。
私も大いに彼らの影響を受けていると思います。

また、長くなってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体