今回も、クラニオセイクラルの療術にまつわることから、普段の生活の役に立つかもしれない"関係性のニュートラル"についてご紹介をさせていただきます。
関係性のニュートラルとは、セラピスト(プラクティショナー)とクライアント(セラピーを受ける方)の関係性が中立であるという意味です。
つまり、どちらにも、精神的、身体的苦痛のない、負荷がかかっていない関係性と言う事が出来ると思います。
この中立さも、クラニオセイクラルの教えの初期の段階で学ぶ、重要な概念であります。
そして、同じように、この関係性のニュートラルの学びも生涯かかって学び続ける程の大きなテーマであるとも言うことができると思っており、また、関係性のニュートラルとは、同じく身体の状態に基づいた、心や精神の状態を表すことが多く、わかりやすく説明できるように、関係性のニュートラルが築けていない状態の例を少し挙げたいと思います。
・プラクティショナーが、クライアントに触れる際、クライアントさえ心地よければよいと考え、自分が多少困難な姿勢であっても我慢をして、犠牲心を払っている状態。
・クライアントがプラクティショナーに権威的な圧力を感じ、遠慮してしまい、不快な触れ方であるが何も言わず我慢して萎縮している状態。
そのほかにも、たくさんの状況が考えられますが、このような関係性のニュートラルが無い状態のまま、セッションを開始してしまうと、癒されるどころか、逆の効果が出てしまうことすらありえる、全くもって危険な状態です。
しかし、よく考えて見ますと、我々が生きるこの社会では、当たり前のように関係性のニュートラルが無い状況が多々あります。
おそらく、職場環境、雇用主と従業員の関係、上司と部下の関係
あって欲しくはありませんが、家族内での親子、兄弟、夫婦関係など
そして、大きなくくりではありますが、数々の国家間の問題を考えましても大いにニュートラルが崩れている状態であります。
クラニオセイクラルのセラピストは、ほとんど、セッション中に自分自身がニュートラルに入る訓練はできているでしょう。そして、クライアントをニュートラルにいざなう訓練もできています。もちろん私も、そのように教えていただきました。
しかし、そのニュートラルの関係性を、セッションから離れた場所で、クライアント以外の方々と築いていくことは、本当に大きなチャレンジです。
必ずしも毎回上手く行くとは限りませんが、それが築けたときは、自分にとっても、相手にとっても大きな財産になるということを経験できました。
その経験は、このクラニオセイクラルを学んで得ることの出来た大きな恩恵であると実感し、先生方や関わる人に心から感謝しています。
もし、クラニオセイクラルの経験から私が教えていただいた事を、現実の社会で生かせるように言い換えるとするのであれば、
それは、まず、自分自身がニュートラルであることが、今、目の前にいる人のニュートラルへの導入を助けることができると言うことができます。
以前のブログ、ニュートラル①やバウンダリー①でもお話していますが、
ニュートラルという自分の中の葛藤を含む、相反する感情の中心にある、静かな場所にたたずみ、適切な距離感や境界線を保ち、相手の問題と自分の問題を区別し、そして、自分の身体の状態を中心軸ミッドラインにいるのかどうかをもう一度、確認することなどを試み、
まず、自分から始めることが、相手を変えようとする前に行うべき価値ある心的な行いだと思います。
しかしながら、私はこうして、ニュートラルについて語っていますが、時に、怒ったり泣いたりする一人の人間としての感情を持っています。
ニュートラルになる手段を教わったからと言って、人間としての、感情に揺れない状態、または喜怒哀楽がない状態になるわけではありません。
ただ、ニュートラルに戻ることを教えていただいたことで、“ニュートラルの静けさの中にある変容を何度も経験しているため、ニュートラルの偉大さへの信頼を持っている”に過ぎないとも言えます。
私は、自分の内側に感情が込み上げた時に、その感情を自分のものとして、深く体感し、味わうようにしています。
それがポジティブな感情であろうと、ネガティブな感情であろうと、これは自分の感情だと、自分が慈しんで味わうことで、自分を大切にするという自己尊重の気持ちを込めます。
自分の感情を大切にすることができれば、自然に、目の前にいる人の感情を大切にすることができると信じているからです。
潜在意識の中では、自他同一性といって、自分と他人の区別が無いそうです。
��このお話につきましては、また機会があるときにさせてください。)
自分の感情を受け取れることが出来る、つまり、自分の感情を意識化することが出来れば、逆に、自分の感情に振り回されることがなくなります。
無意識下にある感情は、たくさんあるのでしょうが、少なくとも、今、自分で気がつくことができる感情からは、自由になることができます。
それを冷静に相手に伝えることも出来るでしょう。
感情の荒波の影響から少し離れて、お互いにとっての中立的な位置、つまり、静けさのポイントに立つ事が出来ます。
ニュートラルの静けさからの変容の恩恵を受けて、関係性がお互いにとって負荷がかからないものに、変容していく大きなきっかけとなります。
クラニオセイクラルではまた、ネゴシエーションと言って、クライアントとの関係性のニュートラルに入るための交渉、コミュニケーションをしていく方法を学ぶのですが、この学びも大変奥の深いものです。
コミュニケーションの方法は、言葉のみならず、たくさんの手段があり、そのツールがあればあるほど、自分を支えてくれるものであると思いますが、私にとってのコミュニケーションとは、自分の感情を大切にすることから始まるということであります。
最後に、自己啓発書として有名な「7つの習慣」という本に紹介されている第4の習慣「Win-Winを考える」についての内容を紹介いたします。
(Franklin Planner Organizer序文より引用 )
ここから__________________________
「Win-Winを考える」といのは、人に優しくすることでもなければ、手っ取り早い解決手段でもありません。これは表面的なやり方ではなく、内面的なもの、(人格)をベースに、本質的な人との相互関係や、協調関係の構築を目指すものです。
私たちの多くは、それまでの経験によって、自分の価値を比較や競争に基づいてはかるようになっています。誰か他の人が失敗すれば、自分の成功と捕らえるのです。
Win-Winは、人生を競争ではなく、強調の場としてとらえます。Win-Winは、あらゆる対人関係の相互利益をつねに探るという考え方と心持であり、互いの利益となり、互いに満足できる合意、または解決策を意味します
________________________ここまで
クラニオセイクラルの学びは、自然科学や芸術の中に満ち溢れていると以前、申し上げましたが、このような優れた自己啓発書の中にも、その本質があります。
ビジネスの現場で、どちらかが勝ち、どちらかが負けるというのは、当然のように行われておりますが、関係性のニュートラルではありません。
このWin-Winの考え方において、どちらかが負けてしまうような取引、Win-Loseまたは、Lose-Winになってしまう取引はしないNo dealという選択が提案されています。
ここから__________________________
Win-Winの考え方では3つの必要不可欠な人格の要素を持つと考えられています。
①誠実:自分の本当の気持ち、価値観に誠実であり、約束を守る。
②成熟:自分のアイデアや気持ちを表現し、他の人のアイデアや気持ちに対し、思いやりと勇気をもって表現する。
③豊かさマインド:全ての人に十分に行きわたるだけあると信じる。
��________________________ここまで
3つの必要不可欠な人格の要素においては、①自分の気持ちや、価値観に対して誠実であることが大切であると述べられており、この誠実さは、②の周囲の人々の気持ちや、価値観を大切にすることへつながる事が示唆されています。
そして、③豊かさマインド、全ての人に行きわたるだけあると信じるという表現がされていますが、これは、クラニオセイクラルでは、リソース(資源)という用語があり、類似した考え方であります。
また、この考え方についても、いずれご紹介できればと思っております。
ここから__________________________
多くの人々は、2分法で考えます。優しいか厳しいかのどちらかだと。しかしWin-Winはあなたに優しさと厳しさ、勇気と思いやりのバランスをとることを求めます。
________________________ここまで
まさに、ニュートラル、中立に対する心的な態度が表現されております。
関係性のニュートラルが成立するためには、まず、自分自身の状態がニュートラルであること、そして、そこから家族との関係性のニュートラルが確立され、それがやがて、他者をふくむ、社会とのニュートラル、やがては国家間のニュートラルに発展していくことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。
しかし、このように、一筋縄ではいかない内容であり、私も試行錯誤の連続でありますが、こうして紹介させて頂く事が、万が一、お読みくださるあなたにとって、何かのお役にたてれば大変嬉しく思います。
ここまでお読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。
中満整体
2013年3月11日月曜日
2013年3月2日土曜日
プライマリーレスピレーション 原初の呼吸①
プライマリーレスピレーションprimary respirationとは、クラニオセイクラルの専門用語です。
日本語では、第一次呼吸と訳されることが多いと思いますが、あえて、このブログでは原初の呼吸と呼びたいと思います。
私たちの多くは、出生と共に産声をあげて、初めての肺呼吸をするのですが、原初の呼吸はすでに、受精卵であるころから始まっています。
細胞が、一つから二つになるその瞬間でさえも、呼気、吸気のように、拡張したり、収縮したりして、細胞そのものや、細胞の分裂にまで原初の呼吸は働きかけています。
原初の呼吸についてのお話をする前に、少し、クラニオセイクラルの歴史を手短にお話したいと思います。
クラニオの綴りは、英語の接頭語であるcranio- 日本語では頭蓋という意味があります。
セイクラルとは、同じく英語でsacral、日本語で仙骨のことであり、クラニオセイクラルを訳すと頭蓋仙骨療法です。
英語であるのは、クラニオセイクラルが発見された場所は米国であるからです。
現在ではヨーロッパでとても発展しており、ドイツ、イギリスなどでは、保険治療でカバーされる療術です。
アメリカで生まれたこのような治療体系は、クラニオセイクラルのほかに、皆様のよくご存知のカイロプラクティスなどがあり、また、オステパシーと呼ばれる医療があります。このオステオパシーは、米国では医学の一つの分野としてすでに確立しており、大学での修士課程を終えて初めてドクター・オブ・オステオパシーの称号が与えられます。
クラニオセイクラルの父親とも呼べるウイリアム・サザーランド先生は、今から100年ほど前にアメリカでオステオパシーの勉強をされていました。当時、先生は、耳の上の側頭骨という骨が魚のえらの様に動いているのではないかとの仮説をたて、ご自分でヘルメットのようなものを被ったりして、脳の動きを研究されました。
それでは少し、脳の構造をとても大まかにお話します。
まず、頭に触れると髪の毛の下に、頭皮があります。その下には、頭蓋骨があります。
もっと奥には、大脳がありますが、この頭蓋骨と大脳の間には、脳脊髄液という液が流れています。直接脳が、ぴっちりと頭蓋骨にくっついていると、何らかの物理的な衝撃があったときに、直接脳にダメージを与えてしまうのですが、この脳脊髄液は、クッションのような役割を果たし、衝撃を吸収してくれるのです。
サザーランド先生が、側頭骨がえらの様に動いていると思われたのは、この脳脊髄液の働きに関係しています。
側頭骨のえらの様な動きは、脳脊髄液を通した、原初の呼吸の現われです。
脳脊髄液から、原初の呼吸を感じ取れるのです。つまり、脳脊髄液から、呼気、吸気を感じ取れるということです。
クラニオセイクラルのセラピーは、この脳脊髄液の原初の呼吸に大変関わりの深いワークであり、脳脊髄液から頭蓋骨に伝わった原初の呼吸の動きをセラピストは、手や身体などで感じ取るのです。
脳はいくつかの骨の集まりで、縫合によってくっついてしまっているので、動かないとされる考え方もありますが、実際、訓練されたクラニオセイクラルのセラピストは、施術を受ける人のコンディションが原初の呼吸をしているのであれば、たいてい、当然の様にその動きを感じ取っています。
この脳脊髄液から伝わる、原初の呼吸は、実際には、長さと広さがあります。
短いスパンで呼吸をすることもあれば、長い息で呼吸をすることもあります。
それでは、この、長い息で呼吸をし始める状態を、このセラピーのセッションの場所以外で感じ取れる場面についてのお話をしたいと思います。
しかし、これは、数多くあるクラニオセイクラルの専門書に記載されていたことでは全くなく、あくまで私の個人的な経験に基づく、私の原初の呼吸に対する理解でありますが、お読みくださって、なんとなく体感的に共感していただける方は多くいらっしゃるような気がしていますので、ここに紹介をいたします。
私は6歳から19歳まで書道を習っていました。
小学1年生から6年生まで、楷書を習います。
中学生になると行書といって、楷書より画一つ一つがくっついたような、流れがあるように見える字体を書き始めます。
主に、楷書を習っていた頃に、はねる、はらう、止めるなどの基本的な筆使いや、姿勢などを習い、この頃には、楷書の基本は概ねある程度出来上がってきている状態であります。
次に、行書ですが、これまでの基本を踏まえながら、文字に流れをつけて行くのですが、楷書体より、行書体の方が、実際書くスピードはゆっくりです。
行書ならではの筆使いを学びながら、練習していくのですが、最初はなかなか思う様にかけません。スピードがゆっくりである分、より、こちらの息使いと、筆使いがはっきりと書に現われます。
つまり、上手く書けない時は、はっきりそれが現れます。
そして、練習をすればするほど、時間が濃密になっていきます。
すると、ある瞬間が訪れます。
私の息使いと、筆の息使いの波長が合ってくるのです。
まるで、筆が呼吸をし始めたかのように、流れに乗り始めるのです。
この瞬間は、とっても気持ちがいいのです。
書が生き生きとしてきます。
そして、また、次の練習をしたときに、同じ流れに乗れる瞬間がやってくるのかというとそうではありません。
また、同じように訓練をすることになるのです。
しかし、また、ある瞬間にその波に乗る瞬間がやってきます。
2002年に米国へ旅した後に偶然知ったクラニオセイクラルの、セラピーを習うための初回のイントロダクションという、どんな施術なのかを体験するようなコースを受講しました。
指導された通りに、5グラムで、相手の人の腿に手を置いた瞬間、サーフィンのように、波に乗るかのような感触を味わいました。
それが、また、とっても気持ちがいいのです。
書道で味わった、あの、波に乗るときと同じ感覚でした。
そして、私はこのセラピストになる以前、ファッションデザイナーでした。
デザイン研究所にいた頃は、毎日のように絵を書き、作品を作る日々でした。
描いても、描いても、同じような色やシルエットになってしまって、全く前に進めないような時期があるのですが、また時間が濃密に感じられた後に、あの瞬間がやってきます。
手が呼吸をするのです。いや、全身が呼吸をするのです。
全てのかけらが一つになっていくように、統合されるように、作品のテーマが反映されるような絵が描けるときが来るのです。
絵が描けたら今度は、パターンです。型紙を引いて、人体の模型に着せて型紙を調節していくのですが、この時に、絵を描いたときの波に乗れないと、絵を描いたときの、波に乗っているような気持ちよさと感動が、全く実際の立体に反映されない、ただ色と形が同じだけの作品になってしまうのです。
絵を描いたときの、波に乗る感覚が来るまで、やり直しです。
しかし、絵を描いたときが最高潮で、また訪れないのではないかと心配になったりもしますが、一度波に乗れたら、意外にも絵よりいい立体が組めたりすることもありました。
私は、この波に乗る感覚が、原初の呼吸の現われだと信じています。
書道では臨書といって、王羲之や顔真卿などの歴史的国宝レベルの作品を見て、そっくりに真似をして描くという練習があります。
あの練習の目的は、書家の息使いを、今、臨書することによって、再体験をする練習だったのだと思います。
書家の息使いを再体験するとは、つまり、どのように原初の呼吸が書家を通して伝わり、表現されたかを自分の身体を使って、再体験するということです。
書には気が入っているだとか、精神統一をして書くなどといわれることがありますが、それはつまり、原初の呼吸をした息吹が、肉体を通って、書に反映されるということと同義だと思っています。
最後に、私はアイススケートの荒川静香さんがとても好きです。
たくさんの金メダリストがいらっしゃるなかで、2006年のトリノオリンピックで金メダルを受賞したフリープログラムの演技は、まさに原初の呼吸に乗っている状態でした。
荒川さんは、2004年にドイツでワールドチャンピオンになられた時点で、アイススケートの世界最高である技術を持っておられていたと思います。しかし、2006年では、技術を超えて、芸術の分野に足を踏み入れたまさに、身体を使った芸術作品でした。
2006年トリノオリンピック 荒川静香さんフリープログラム金メダル受賞
私は、身体に伝わった原初の呼吸を、書や絵、またはファッションデザインとしての作品に反映させていましたが、今度こそ、自分自身の身体を使った、芸術に触れたいとの思いで、2007年からヨガを志しています。2013年にもなりますが、ヨガの奥が深い事もあり、まだ基本的なことをマスターしようとしている状態です。
しかし、頻度はとても低いのですが、あの瞬間は訪れるのです。
指導を受け、何度も同じ型を繰り返し練習した後に、大きな波に支えられて、まっすぐ立ち、全身のバランスを保っているような感覚を覚えます。そして、波に乗って、深い呼吸と体の動きのバランスが自然にとれる瞬間が訪れるのです。
これを読んでくださっているあなたが、ご自身の専門分野にてこのような原初の呼吸の体験をされておられたとしたら、そしてまた、わかるなぁと少しでも共感してくださったらとてもうれしいです。
クラニオセイクラルをヒーリングアートと呼んでおられる先生もいらっしゃるくらい、クラニオセイクラルは芸術的な質を持っています。
そして、もし、あなたが芸術の分野を志しておられたら、私は、この原初の呼吸という全ての生命のエッセンスにたどり着くためのお手伝いができると信じています。
長文になりましたが、お読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心より、お待ちしております。
中満整体
日本語では、第一次呼吸と訳されることが多いと思いますが、あえて、このブログでは原初の呼吸と呼びたいと思います。
私たちの多くは、出生と共に産声をあげて、初めての肺呼吸をするのですが、原初の呼吸はすでに、受精卵であるころから始まっています。
細胞が、一つから二つになるその瞬間でさえも、呼気、吸気のように、拡張したり、収縮したりして、細胞そのものや、細胞の分裂にまで原初の呼吸は働きかけています。
原初の呼吸についてのお話をする前に、少し、クラニオセイクラルの歴史を手短にお話したいと思います。
クラニオの綴りは、英語の接頭語であるcranio- 日本語では頭蓋という意味があります。
セイクラルとは、同じく英語でsacral、日本語で仙骨のことであり、クラニオセイクラルを訳すと頭蓋仙骨療法です。
英語であるのは、クラニオセイクラルが発見された場所は米国であるからです。
現在ではヨーロッパでとても発展しており、ドイツ、イギリスなどでは、保険治療でカバーされる療術です。
アメリカで生まれたこのような治療体系は、クラニオセイクラルのほかに、皆様のよくご存知のカイロプラクティスなどがあり、また、オステパシーと呼ばれる医療があります。このオステオパシーは、米国では医学の一つの分野としてすでに確立しており、大学での修士課程を終えて初めてドクター・オブ・オステオパシーの称号が与えられます。
クラニオセイクラルの父親とも呼べるウイリアム・サザーランド先生は、今から100年ほど前にアメリカでオステオパシーの勉強をされていました。当時、先生は、耳の上の側頭骨という骨が魚のえらの様に動いているのではないかとの仮説をたて、ご自分でヘルメットのようなものを被ったりして、脳の動きを研究されました。
それでは少し、脳の構造をとても大まかにお話します。
まず、頭に触れると髪の毛の下に、頭皮があります。その下には、頭蓋骨があります。
もっと奥には、大脳がありますが、この頭蓋骨と大脳の間には、脳脊髄液という液が流れています。直接脳が、ぴっちりと頭蓋骨にくっついていると、何らかの物理的な衝撃があったときに、直接脳にダメージを与えてしまうのですが、この脳脊髄液は、クッションのような役割を果たし、衝撃を吸収してくれるのです。
サザーランド先生が、側頭骨がえらの様に動いていると思われたのは、この脳脊髄液の働きに関係しています。
側頭骨のえらの様な動きは、脳脊髄液を通した、原初の呼吸の現われです。
脳脊髄液から、原初の呼吸を感じ取れるのです。つまり、脳脊髄液から、呼気、吸気を感じ取れるということです。
クラニオセイクラルのセラピーは、この脳脊髄液の原初の呼吸に大変関わりの深いワークであり、脳脊髄液から頭蓋骨に伝わった原初の呼吸の動きをセラピストは、手や身体などで感じ取るのです。
脳はいくつかの骨の集まりで、縫合によってくっついてしまっているので、動かないとされる考え方もありますが、実際、訓練されたクラニオセイクラルのセラピストは、施術を受ける人のコンディションが原初の呼吸をしているのであれば、たいてい、当然の様にその動きを感じ取っています。
この脳脊髄液から伝わる、原初の呼吸は、実際には、長さと広さがあります。
短いスパンで呼吸をすることもあれば、長い息で呼吸をすることもあります。
それでは、この、長い息で呼吸をし始める状態を、このセラピーのセッションの場所以外で感じ取れる場面についてのお話をしたいと思います。
しかし、これは、数多くあるクラニオセイクラルの専門書に記載されていたことでは全くなく、あくまで私の個人的な経験に基づく、私の原初の呼吸に対する理解でありますが、お読みくださって、なんとなく体感的に共感していただける方は多くいらっしゃるような気がしていますので、ここに紹介をいたします。
私は6歳から19歳まで書道を習っていました。
小学1年生から6年生まで、楷書を習います。
中学生になると行書といって、楷書より画一つ一つがくっついたような、流れがあるように見える字体を書き始めます。
主に、楷書を習っていた頃に、はねる、はらう、止めるなどの基本的な筆使いや、姿勢などを習い、この頃には、楷書の基本は概ねある程度出来上がってきている状態であります。
次に、行書ですが、これまでの基本を踏まえながら、文字に流れをつけて行くのですが、楷書体より、行書体の方が、実際書くスピードはゆっくりです。
行書ならではの筆使いを学びながら、練習していくのですが、最初はなかなか思う様にかけません。スピードがゆっくりである分、より、こちらの息使いと、筆使いがはっきりと書に現われます。
つまり、上手く書けない時は、はっきりそれが現れます。
そして、練習をすればするほど、時間が濃密になっていきます。
すると、ある瞬間が訪れます。
私の息使いと、筆の息使いの波長が合ってくるのです。
まるで、筆が呼吸をし始めたかのように、流れに乗り始めるのです。
この瞬間は、とっても気持ちがいいのです。
書が生き生きとしてきます。
そして、また、次の練習をしたときに、同じ流れに乗れる瞬間がやってくるのかというとそうではありません。
また、同じように訓練をすることになるのです。
しかし、また、ある瞬間にその波に乗る瞬間がやってきます。
2002年に米国へ旅した後に偶然知ったクラニオセイクラルの、セラピーを習うための初回のイントロダクションという、どんな施術なのかを体験するようなコースを受講しました。
指導された通りに、5グラムで、相手の人の腿に手を置いた瞬間、サーフィンのように、波に乗るかのような感触を味わいました。
それが、また、とっても気持ちがいいのです。
書道で味わった、あの、波に乗るときと同じ感覚でした。
そして、私はこのセラピストになる以前、ファッションデザイナーでした。
デザイン研究所にいた頃は、毎日のように絵を書き、作品を作る日々でした。
描いても、描いても、同じような色やシルエットになってしまって、全く前に進めないような時期があるのですが、また時間が濃密に感じられた後に、あの瞬間がやってきます。
手が呼吸をするのです。いや、全身が呼吸をするのです。
全てのかけらが一つになっていくように、統合されるように、作品のテーマが反映されるような絵が描けるときが来るのです。
絵が描けたら今度は、パターンです。型紙を引いて、人体の模型に着せて型紙を調節していくのですが、この時に、絵を描いたときの波に乗れないと、絵を描いたときの、波に乗っているような気持ちよさと感動が、全く実際の立体に反映されない、ただ色と形が同じだけの作品になってしまうのです。
絵を描いたときの、波に乗る感覚が来るまで、やり直しです。
しかし、絵を描いたときが最高潮で、また訪れないのではないかと心配になったりもしますが、一度波に乗れたら、意外にも絵よりいい立体が組めたりすることもありました。
私は、この波に乗る感覚が、原初の呼吸の現われだと信じています。
書道では臨書といって、王羲之や顔真卿などの歴史的国宝レベルの作品を見て、そっくりに真似をして描くという練習があります。
あの練習の目的は、書家の息使いを、今、臨書することによって、再体験をする練習だったのだと思います。
書家の息使いを再体験するとは、つまり、どのように原初の呼吸が書家を通して伝わり、表現されたかを自分の身体を使って、再体験するということです。
書には気が入っているだとか、精神統一をして書くなどといわれることがありますが、それはつまり、原初の呼吸をした息吹が、肉体を通って、書に反映されるということと同義だと思っています。
最後に、私はアイススケートの荒川静香さんがとても好きです。
たくさんの金メダリストがいらっしゃるなかで、2006年のトリノオリンピックで金メダルを受賞したフリープログラムの演技は、まさに原初の呼吸に乗っている状態でした。
荒川さんは、2004年にドイツでワールドチャンピオンになられた時点で、アイススケートの世界最高である技術を持っておられていたと思います。しかし、2006年では、技術を超えて、芸術の分野に足を踏み入れたまさに、身体を使った芸術作品でした。
2006年トリノオリンピック 荒川静香さんフリープログラム金メダル受賞
私は、身体に伝わった原初の呼吸を、書や絵、またはファッションデザインとしての作品に反映させていましたが、今度こそ、自分自身の身体を使った、芸術に触れたいとの思いで、2007年からヨガを志しています。2013年にもなりますが、ヨガの奥が深い事もあり、まだ基本的なことをマスターしようとしている状態です。
しかし、頻度はとても低いのですが、あの瞬間は訪れるのです。
指導を受け、何度も同じ型を繰り返し練習した後に、大きな波に支えられて、まっすぐ立ち、全身のバランスを保っているような感覚を覚えます。そして、波に乗って、深い呼吸と体の動きのバランスが自然にとれる瞬間が訪れるのです。
これを読んでくださっているあなたが、ご自身の専門分野にてこのような原初の呼吸の体験をされておられたとしたら、そしてまた、わかるなぁと少しでも共感してくださったらとてもうれしいです。
クラニオセイクラルをヒーリングアートと呼んでおられる先生もいらっしゃるくらい、クラニオセイクラルは芸術的な質を持っています。
そして、もし、あなたが芸術の分野を志しておられたら、私は、この原初の呼吸という全ての生命のエッセンスにたどり着くためのお手伝いができると信じています。
長文になりましたが、お読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心より、お待ちしております。
中満整体
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