実はここ最近、特に機嫌が良かったというわけでもないのに、時々、鼻歌を歌っていました。
心の中にどこかで聞いたことがあるメロディーが浮かんでくるのですが、誰の曲か、どんなタイトルか、しばらく思い出せずにいました。浮かんでくる歌詞を時々思い起こしたりして、しばらく考えたりしながら、ようやく、先日、思い出しました。
今は亡き、ホイットニー・ヒューストンさんの「the greatest love of all」という曲でした。まずは、このタイトルを歌いながら先に思い出し、ようやくすっきりしました。
ホイットニー・ヒューストン the greatest love of all
私は彼女の大ファンであったというわけでもなかったのですが、一度だけ、ケビン・コスナーさんと共演された、「ボディーガード」という映画を見たことがあり、その映画のサウンドトラック版のCDも、もしかしたら一緒に購入していて、その中にあった一曲かもしれない、というくらいの、ハッキリしないような記憶のなかにある曲でした。
しかし、ボディーガードという映画にはとても感動しました。
映画の内容と、彼女の歌がマッチしていて、スタイル抜群のホイットニーさんを劇場で見たときは、アフリカンアメリカンの女性は、こんなに綺麗なんだなぁ、とうっとりさせられましたし、ケビン・コスナーさんも、「ダンス・ウイズ・ウルブス」の頃より、少し円熟味帯びていて、お二人とも絶好調の時期に撮影された作品だったと思います。内容は、異人種間の愛、そして、スーパースターとボディーガードという関係の中で、踏み込んではいけない愛に踏み込んでしまうという内容のラブストーリーです。
ホイットニーさんの役は、現実の彼女と同じ、スーパースターの役。トップスターの孤独を持ちながらも、気丈にご自分の高みまで上り詰めていくという役柄。そして、ケビン・コスナーさんは、ストイックで隙を見せないボディーガードという役柄です。
私が思い出したこの曲も、ホイットニーさんの役柄、実際のスーパースターである彼女の内面が反映されているのではないか?とも思ったりしています。
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「The greatest love of all」の歌詞をここにご紹介します。
I believe the children are our future
Teach them well and let them lead the way
Show them all the beauty they possess inside.
Give them a sense of pride to make it easier.
Let the children’s laughter remind us how we used to be.
子供達は私たちの未来。
よく教えてやり、導いてやり、
子供達の内側に持っている全ての美しさをみせてあげて、
そして、彼らに自分を誇りに思うことを教えてあげることが、
子供達の未来を切り開くことを助けるでしょう。
子供達の笑い声が、私たちが昔子供であったということを思いこさせてくれる。
Everybody is searching for a hero.
People need someone to look up to.
I never found anyone who fulfill my needs
A lonely place to be and so I learned to depend on me,
I decide long ago never to walk in anyone’s shadows.
If I fail, If I succeed at least I live as I believe
みんなヒーローを探している。
尊敬できる誰かが必要だから。
でも、私は、私を満たしてくれるような人を見つけ出せなかった。
寂しいこともあったけれど、私は自分自身を頼るということを学んだの。
私はずっと前に、他の誰かの面影を生きないと決めたの。
もし失敗しても、成功しても、すくなくとも、それは私が信じるように生きるということだから。
No matter what they take from me they can’t take away my dignity.
Because the greatest love of all is happening to me
I found the greatest love inside of me.
The greatest love of all is easy to achieve.
Learning to love yourself, it is the greatest of all
たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。
なぜなら、私の中で、全ての中で最も偉大な愛が生まれているから。
私は、最も偉大な愛を私自身の内側で見つけたの。
この世で最も大きな愛を見つけることは、簡単に達成できる。
自分自身を愛すること、それを学ぶことが何より一番尊いことだから。
And if by chance that special place
that you’ve been dreaming of lead you to a lonely place,
Find your strength in love.
そして万が一、あなたがずっと夢見ていた事が、思わぬ結果になってしまっても、
あなた自身が、愛の中にたたずむことで、強さを見出すことが出来るから。
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英語が得意な方は、原文でお読みください。かなりの意訳になってしまってお恥ずかしい限りです・・・。
じっくりと訳して見て、こんな内容だったのだと再認識したと共に、私は、なぜ20年も前に聞いた、うろ覚えの曲を思い出したのだろうか?という疑問が湧きました。
そもそも、この歌詞にあるように、
「たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。」
こんなこと、言ってみたいですよ。こんなこと言えるのは、ホイットニーさんだからでしょ。と言いたくなる気持ちを抑えつつ、このdignityという言葉、実は、私はとても好きな単語です。
確か、オバマ大統領も就任演説でdignityという言葉を使っていたような気がします。
日本には、謙遜を美徳とする文化があるため、尊厳や自尊心などという単語を頻繁に使うのをためらいがちになります。あえて尊厳や自尊心という言葉以外の日本語でdignityのイメージを表現をするのであれば、
「私はお天道様に顔向けできないような生き方をしてこなかったです!」
そう胸をはって、選手宣誓のように手を挙げながら、公に自分の誠実さを宣言するような、そんな感覚に近いようなイメージを持っています。
実際には、そのような光景はそれこそ選挙活動のような場面以外では、見たことがないのですが・・・。
そして、もっとも偉大な愛という表現について、これもまたうろ覚えで恐縮なのですが、多分、ひろさちやさんの本だったか…、もしかしたら五木寛之さんの本だったかも…?いや、もしや遠藤周作さんか…?とも思うのですが、このような記述があったのを覚えています。
これまで日本には、愛という言葉は無かった。愛という言葉自体は、ミシンやオルガンなどと同じような舶来品と同じであり、近代になって西洋社会から輸入した単語である。
古来日本の文化の中でそれに対応する言葉は、慈悲であり、または、より大衆的な表現を使うと人情という言葉である。
たしか、このような内容であったのを覚えています。愛とはキリスト教文化圏の表現なのでしょうか?その中でも、とても高尚な表現の一つなのでしょうか?
神学をきちんと学んでいる訳ではないので、よくわからないのですが、
愛といえば、西洋人は違和感なくLoveとお手紙の最後に書いてみたり、またチョコレート大好き!と言う場合もI love chocolate!と言ってみたり、私たちが使う愛とは違うところで、しかもかなりに頻繁にloveという言葉が使われているような気がします。
しかし、仏教や神道の文化的背景のある日本で育った、コテコテの日本人である私の勝手な解釈ですが、日本語の「慈悲」と言う表現や、英語であればmercyのような表現の場合は、もっと壮大で、私たち人間が許すことの出来ないような罪も穢れも全て許すような、というよりはじめから許すという概念すら存在しないくらいスケールの神がかりな包容力、大きな懐を感じ、頻繁に常用されている愛という単語とは違ったイメージを私は個人的に持っています。
私の勝手な理解としては、昨今、使われている愛、loveは、神でもなんでもない生身の不完全な人間がする試みで、
慈悲、mercyは、神の包容力。人間の思考や理解を超えた神がかり的な広大な意識。
そう、自分勝手な解釈をしています。
そもそもLoveは、名詞と動詞の両方の活用があり、mercyは動詞にはならないことからも、動詞として実行するところに、人間の学習の余地が多分にあるという事なのかもしれません。
クラニオセイクラル、バイオダイナミクスにたとえるならば、愛、loveは、プライマリレスピレーション、原初の呼吸、
慈悲、mercyは、ダイナミックスティルネスというイメージがします。
ダイナミックスティルネスのお話は一度もしていませんが、またいずれ話題にできたらと思っています。
私のゴシップ知識が正しければ、ホイットニーさんが亡くなられた事を知った、元夫のボビー・ブラウンさんは、ステージの上で泣き崩れ、”I love you, Whitney”と言ったそうです。
正直、私は驚きました。
泣くほど愛していたのであれば、どうして彼女にハードドラッグを薦めたり暴力を振るったりしたのでしょうか?
真相も知らないくせに、全くもって、大きなお世話な話ですが、やっぱり、私も女性なので思わず、女性の味方をしてしまいます。
しかし、お二人がどんな関係性であったとしても、ボビー・ブラウンさんは、一人の不完全な人間として、ホイットニーさんを彼なりに不完全な愛し方で、本当に愛していたのかもしれないとそう思います。彼だけではなく、みんな人間は紆余曲折し、少しずつ成長しながら、愛を学んでいる途中なのかもしれません。
ですから、私も一人の不完全な人間として、ボビーさんを批判する立場にはないのです。
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今、ここに生きている私は、私の両親の愛の結晶だと、そう思いたいですし、どんな子供も、愛されて歓迎されてこの世に生をうけるべきだと私は思っています。
しかし、私の勝手な"子供は愛されるべき"、という考えが、この人間界の中で当然である現実の状態であるのならば、セラピーはいらないでしょう。
親から子供へ伝わっていく愛は、それこそ、人間らしく伝えられていき、やがて、その子供も巣立ち、自分なりに人を愛していくのでしょう。
その循環の多くは家族を基軸に継承され続いていくのでしょうけれも、残念ながら、人間の不完全さがあるがために、時に愛情不足でその愛情循環が滞ってしまうことが無いわけでもないと思います。
また、愛情不足で不完全だからこそ、歌の歌詞の通り、生涯かかって自分自らの内なる愛に満ち溢れることを学んでいく必要があるというメッセージなのかもしれません。
たとえば継承されてきた愛の形が、たとえば、いびつに見えたとしても、それでも私も含めて関わる人達はそれぞれ不完全な人間として、その時のベストを尽くしていたと分かることが大切のように思います。
そして、私は自分自身の愛に対するdignity、お天道様に顔向けできるように、切磋琢磨しながら不完全ながらも、時に痛い思いをしながらも、ちゃんと学んでいます!と胸を張っていられる自分でいたいからこそ、この歌のメロディが何処からか聞こえてきたのかもしれません。
初めての日記的なブログです。
長文になりましたが、お読みくださりありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。
中満整体
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