プレゼンスであること。今この瞬間に存在すること。
これも、初期に教わる、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの本質であり、欠くことのできない必須の教えです。そして、生涯をかけるに値する、奥行きのある学びです。
あまりにも壮大なテーマであるため、先延ばしにしてきたのですが、少し、このプレゼンスに対する私の思いを書いてみようと思います。一回では全て書けなくても、段階的に、これから先、私の理解が変化していきながら、その時の私にとってのプレゼンスのお話ができたらと思っています。
寛容におつきあいいただけますと、とてもうれしく思います。
もし、私がクラニオセイクラルに出逢っていなかったとしたら、今、この瞬間に存在することは当たり前のことであり、願っても昨日に戻ることは出来ませんので、難しい学びだとは思うはずがないと思うのです。しかし、クラニオセイクラルを学ぶにつれて、今にいることはそんなに簡単なことではないと身をもって体験してきました。
以前のブログ、バウンダリー①でもご紹介しておりますが、実際、脳は過去からの記憶で今を判断する機能があり、今をありのままに受け止めることは簡単ではない事でした。
さらに、人は、あまりにも苦痛が続くと希望的な観測に基づく未来にも飛んで行く事もあるように思います。
私にも身に覚えが多少ありますが、例えば、“採らぬ狸の皮算用“ということわざがあります。まだ仕留めてもいない狸の皮がいくらで売れるのかを計算し始め、しかも、その稼ぎで何を得ようかと考え始めるような状態は、すでに今にいない状況でもあり、まさにプレゼンスの状態から外れてしまっています。
しかし、それでも、人は、今に在る事ができると信じています。
**************
プレゼンスについて学んだ以前のセミナーでの、とても象徴的なエピソードを少しご紹介したいと思います。
そのまえに、
先生が外国人の方であるために、その時、言葉の行き違いが少しあったかもしれないので、
プレゼンスとプレゼントの言葉の違いについてお話をします。
同じように現在を意味する2つの単語、プレゼンスとプレゼントがあります。
プレゼンスpresenceは名詞形で、主に、今存在することという意味ですが、
プレゼントpresentは形容詞と名詞形があります。
形容詞として、The present situation“現在の状況”だとか、
The present moment ”現在の時点“のように使われ、名詞を修飾する形です。
名詞としては、presentで、現在を表すそうです。
まず、最初に先生が生徒たちにこのように質問をしました。
「プレゼントとは何ですか?」
と尋ねました。すると一人の生徒は、
「贈り物です。」
と答えたのです。
先生は、プレゼントpresent名詞形での現在として質問をしたのだと思います。
しかし、その生徒は、もしかしたら、バースデイプレゼント、だとかクリスマスプレゼントとかのプレゼントpresent (現在を意味するpresentと同じ綴り)と間違えて答えていたのかもしれません。
先生も、その回答を聞いた瞬間、それはプレゼント違いだよ、と途中まで、おっしゃいながら、言葉を噤みました。そして、その後少し立ち止まり、深く頷きながら、納得したかのように、
「あーそうだったのかー。」
とおっしゃいました。
先生は、その“贈り物です”という回答は、間違っていないのだと、しばらく考えて実感されたのでしょう。
その生徒の答えは、私達にとっても、偶然がもたらしたプレゼンスへの理解のヒントになりました。
そして、人としても、セラピストとしても、今に存在することは、自分自身にとっても、周りに対しても多くの贈り物を与えられるようなものなのかもしれない。とその時の私は理解しました。
**************
私は、ヨガを習っています。そして、時々、お寺の和尚さまと一緒に座禅をしたり、説法を聞いたりすることがあります。特に、どこかの宗派にこだわっているのではなく、ご縁があったお寺に足を運び、機会があれば、お話も聞くという程度で、本格的に修行をするなどの大掛かりな取り組みではありません。
その時に出会った、ヨガの先生のお話や、和尚さまのお話が、ずいぶんプレゼンスである状態を得るための助けになっていたように思いますので、その内容を含めて、すこしお話が出来たらと思います。
先ほど、プレゼンスの意味は、今ここに存在することと書きましたが、もう少し、はっきりと理解するために、辞書にて調べてみました。
プレゼンスとはPresenceと綴り、多義の単語であり、たくさんの定義が記載されていました。
他にも定義がありましたが、大きく分けるとこの2つに分類できました。
1、存在すること。今ここにいること。あること。
2、堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力
まず、1番目の定義、“存在すること、今ここにいること。あること。”について。
ヨガをやっているときは、ある種の瞑想状態になります。
先生は、このようにおっしゃいました。
「ヨガは形ではないのです。今、ここにいるということなのです。私たちの思考は、過去に言ったり、未来に行ったりしてしまいます。何度も何度も繰り返し同じ型(アーサナ)をとりながら、思考がとまり、そこに呼吸が流れ、自然に体が呼吸に乗れる状態になり、私たちは今ここにあることができます。」
ヨガを始めた頃は、基本的な型を学ぶことで精一杯でした。本当に最近ですが、この先生の教えの意味がわかりつつあるのです。それは、クラニオセイクラルに本当によく似ています。
思考をとめることは、今にあることの大きな手助けになります。
さらに、通常の肺呼吸を繰り返しながら、やがて原初の呼吸を感じていくプロセスは、クラニオセイクラルのセッションと類似した場すら感じることがあります。
そしてまた、禅の和尚さまはこのようにおっしゃっていました。
「瞑想は、積み上げ方の勉強ではなく、今、座ったかどうかなのです。
20年座ってきたとしても、たった今座ったかどうか。それだけです。」
私はまだ上手に座れませんが、和尚さまは、あぐらのように座り、さらに両方の足の裏を天井側にむけて座っています。そしてその座る姿は美しく落ち着いていて、深い安定感があります。座るための体を作るために10年はかかるとおっしゃっておられましたので、そうとうな修行をしてこられたことと思います。しかし、驚いたことに、積み上げ方の勉強ではないとおっしゃるのです。
過去の経験ではなく、今この瞬間の大切さを私たちに教えて下さろうとしておられたように思います。
経験を積むという表現には、熟練を表すプラスの意味があると思っていましたが、禅においては、経験も過去の一つなのでしょう。
次に、2つめの“堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力”という定義について。
先ほどの和尚さまではない、別の禅寺で出逢った和尚さまは、瞑想をするための座り方についてこのように説明されました。
「座り方は、仏像を手本にしてください。」
百聞は一見にしかず、とはこのことではないでしょうか、仏像は、本当に落ち着いていて、しかも堂々としていて、貫禄を感じます。
座り続け、今にあり続ける姿勢の模範とも言えます。
ヨガの練習においても、上手く原初の呼吸に乗れると、肩などに入っていた力みが自然に抜けるようになります。仏像は、どう見ても、肩に余計な力みが入っているようには見えません。
生き生きと命がここにあるようなライブ感すら感じることすらあります。
私のクラニオセイクラルのセッション中の姿勢の理想像はまさに仏像です。
ミッドラインがまっすぐ天と地に伸びていて、美しい姿勢です。
**************
この様に、私はまさにプレゼンスである状態への学びの途中であります。
ごく自然な形でその学びは、瞑想への学びと変化しました。
そして、その学びの途中で、見て感じてきたその風景には、たくさんの贈り物がありました。
普段通っていた道で、花や果実を見つけて嬉しくなるときのような・・・。
そして、普段の生活では見る事のできない海底の色とりどりの美しい風景の中にいるかのような・・・。
私の言葉では、その感覚を上手く表現できないので、その代わりに、oshoというインドの神秘家の言葉を引用します。
『独りであることを愛せないなら、恋人しか愛せないなら、まだ本当の成熟ではない。そのとき、愛することさえ誰かに依存している。誰かがいなければならない。そうして初めて、愛することが出来る。こういう愛情はまったく表面的なものでしかありえない。それは自己の本性ではない。』
『瞑想すれば、遅かれ早かれ愛に出会う。深く瞑想すれば、遅かれ早かれ、かつて知らなかったほどの大きな愛が生まれるのを感じるようになる。あなたの存在に新しい質。新しい扉が開く。
静寂という精妙な質が入り込んでいる。思考が消え失せ、すき間が現われる。静寂―。』
新瞑想法入門より引用
実は、私を導いてくださった、クラニオセイクラルの先生方は、皆このoshoによって導かれています。
私は先生方がどのように、今在るということを学ばれたかを知りたかったのか、この本はその足跡をたどるかのように読んだoshoの本の中の一冊です。
私が学生のときに、oshoはすでに他界されており、私は本でしか知りませんが、多くのoshoの弟子、サニヤシン達は瞑想を基礎とした様々なボディーワーカーとして国内外で活躍されています。
私も大いに彼らの影響を受けていると思います。
また、長くなってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。
中満整体
0 件のコメント:
コメントを投稿