以前のリソースにまつわるブログに引き続き、今回また、リソースに対する私の思いを書きたいと思います。
前のブログリソース資源①で、ご紹介しました、クラニオセイクラルのセッションにおける、リソースとは、
「安定感や落ち着いていて安らぎを感じる内的、外的要因であり、それが具体的に身体の感覚と結びついている場合は、そこからサポートを得られ、神経系のバランスや自己調整を助けることが出来ます。」
と、このように書きましたが、そのリソースを思い起こさせる、かつて見た事のある光景を思い出しましたので、そこからまたリソースのお話をしたいと思います。
私は、子供の頃、某歯科大学病院の小児科に通っていたのですが、受付には必ずぬいぐるみなどが置いてありました。
そして、成人してから通った歯科クリニックにも、口腔を照らすライトのすぐ横に小さなぬいぐるみがくっついていました。
歯科治療が嫌いな子供の持つ、恐怖に満ちた歯科治療のイメージを払拭しようとする試みなのでしょうか?
または、注射や、歯を削るなどの恐怖感をそのぬいぐるみの可愛らしさが拭い取り、暴れたり叫んだりする子供をリラックスさせ、少しでも安定した状態の中で、治療をしやすくしようという事なのでしょうか?
もし、そうだったとして、なおかつ、それがその通りに、子供にとって上手く作用した場合は、そのぬいぐるみは、まさにリソースとしての役割を果たしたということになります。
つまり、このぬいぐるみというリソースが、注射を打たれ、歯は削られるなどという苦痛、または危機的な状況からサバイバルするために、役に立ったということです。
この状況は、クラニオセイクラルのセッションに共通していている部分があります。
トラウマタイズされてしまった身体の組織やエネルギーが、変容していくプロセスにおいて、私たちセラピストは、トラウマの痕跡を持ち、苦痛や危機的な記憶を持つ組織と、身体全体を、安定の場と共に保持することが重要な要素となります。
ただでさえトラウマタイズされている組織が、万が一、またトラウマになってしまうかもしれないというような、危機的な状況の中にまた置かれてしまえば、解放などありえないのですから、その場合は、受ける方のシステム自体が、おのずと変容に向かうプロセスを進めるはずがないでしょう。
だからこそ、セッションの前に、安定感をもたらすリソースを確認します。
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それらを踏まえた上で、今回は、少し積極的なリソースの解釈になります。
先ほどの話では、ぬいぐるみは、歯科治療をしやすくしてくれました。
ぬいぐるみは、安心感をくれて、治療しやすい状況を作ったという功績はあるものの、ぬいぐるみによって虫歯が治ったわけではなく、あくまで、ぬいぐるみはサポートです。
セッション中には、さまざまことが起こります。
実際に、セッションを必要とする方は、安定をもたらす身体的な部位など無いところからのスタートとなることもあろうかと思います。
セッションを有意義なものにするためも、安定感を感じられるのであれば、ぬいぐるみでも何でも使ったらいいと思うのです。そして時にセラピストである私自身がリソースの役割になってもいいと思うのです。
しかし、外的な要因である、ぬいぐるみやセラピスト無しでも、今、ここにある状態になり、安心感や肯定的な身体感覚とつながり、さらに最終的には、いつでも自在にその状態に意図してなれることが、とても大切なことであり、それがまさにセッションを重ねる事の恩恵ではないかと思っています。
そして、その状態をリソース化された状態と私は解釈しています。
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さらに以前のブログリソース資源①では、
resourceリソース資源とは、
もともとつながっていた無限に発生するsource源、基点から、
re-(接頭語で分離を意味する)切り離され、
一人ひとりに与えられた、命の使命や美しさと書きました。
つまり、切り離されている、ということは、リソースに意識的にならないと、ソースsourceから切り離されたままになりやすいということでもあると思うのです。
意識的にならないと、財宝である、リソース資源を見失いやすいということでもあると思っています。
たとえば、受動的な形で、周囲の人に自分自身の何かしらの資質を褒められたり認められたとしても、そこに自分自身の喜び、そして満たされた感覚や感情がなければ、リソースとして成立しないでしょう。
だからこそ、自らが能動的に、積極的に、Source、無限の創造の泉に自分から歩み寄って、自分に与えられたリソース資源を、何度でも、何度でも、確かめることがとても大切だと思います。
接頭語のre-をもう一度、辞書にて調べて見ると、
離れるという意味もありましたが、再び、新たに、繰り返して、という意味もありました。
リソースresource資源とは、ソースsource源泉から一度離れて、独立した個人に授かるもの、という解釈も出来ますし、
再び、ソースsource源泉に歩み寄り、その都度、新たに、自らに与えられたリソースを確認する、
そして、繰り返して、ソースsourceからの恩恵を受け続けることが出来る。
そのように解釈することも出来ます。
それをサポートすることが、クラニオセイクラルセラピーであり、瞑想であり、自分をみつめるということだと思っています。
(ジーニアス英和大辞典参照)
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以前のブログ、ニュートラル② 関係性のニュートラルでもお話したのですが、家庭や社会での人間関係のニュートラルが崩れること、そして国家間の関係性のニュートラルが崩れるということは、このリソースのあり方に大きく関わっていると思っています。
そもそも、戦争が勃発する要因の一つとして、自国にないリソース資源を搾取するために、侵略をするという背景が考えられます。
つまり、"自分達は持っていない。だからどこかから奪い取らねばならない。"という考えのもとに、国家間の争いが発生してきました。
それと同じようなことが、個人のレベルで起きると思っています。
だからと言って、多くの人は、素敵なお宅を見て、自分にはないからという理由で、強盗に入ったりするわけないでしょうけれども、
例えば、お金や職場環境、社会的地位や立場などを通しながら、間接的に、いずれ物質レベルになりゆく奪い合いは頻繁に起きています。
また無意識的なエネルギーレベルで、個人と個人が関係性のニュートラルを崩しながらエネルギーを奪い合う背景が、考えられます。
競争によって、勝つものと負けるものが作られるこの民主主義という構造からしても、それらは当然、発生しやすいと考えられます。
自分は持っていない、奪い取らねばならないという状態は、リソースから切り離されている状態、つまり、安心感の無い、不安な状態であるのです。
1995年に出版されました、『聖なる予言実践ガイド』より、権力闘争と言われるエネルギーの奪い合いについての文章を引用します。
権力闘争
『人間はほとんどの場合、聖なるエネルギーの源から切り離されており、そのために無力感と不安感を感じている。エネルギーを得るために、私たちは他人の注意を無理矢理自分に引きつけて、エネルギーを盗もうとしがちである。こうしてうまく他人を支配できた時には、私たちは自分が強くなったように感じるが、相手のほうは力を失ったように感じ、しばしばそれを取り戻そうと戦いを挑んでくるものだ。限られたエネルギーを奪い合う競争こそ、人々の間のあらゆる争いの原因である。』
そもそも、自分は持っていない。というのは、このクラニオセイクラル、バイオダイナミクスの理論において、まさに幻想であると言えます。
以前のブログ、ミッドライン①でご紹介した、受精卵だった頃、原始線条が現れる際の比喩表現、ブレスオブライフ(命の息吹)のお話でも触れましたが、今、この地球上に命がある全ての人は、それぞれ神様によって命の息吹が吹きかけられているのです。
原始線条がなければ、背骨もないですし、中枢神経もなく、生きてここに存在できるわけ無いはずです。
つまり、私たち人間は全員、受精卵の頃にすでに、その生命の青写真、個性や、誕生する使命、そして命の輝きが与えられているのです。
奪い合いに巻き込まれる事なく、いつでもリソースに着地できる事が、自分自身のリソースを活かし、また、周囲の人や社会に還元できるという好循環をうみだすのだと思います。
そして、だからこそ、神様でも何でもない、私達人間は、何度でも、何度でも自分の内なるリソースに歩み寄り、確かめる事が必要があり、リソース化とは、自らの、そして他者の幸福への最低限の責任でもあるとも思います。
もっとリソースについては書きたいことがたくさんありますが、長くなってしまったので、一旦ここで終わりたいと思います。
長文にお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
またのご訪問を心よりお待ちしております。
中満整体
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