2014年7月18日金曜日

対人恐怖症と日本文化 対人恐怖は日本の文化であり、調和を保つ美徳であった。

すっかり、夏真っ盛りですね。
横浜では、海水浴ができる海岸は、ほとんどありませんが、海水浴やプールまたはスイカ割りなど、夏を満喫していらっしゃいますか?

お久しぶりです。ひと月ぶりのブログになりますが、今回は、
対人恐怖症という日本文化について、書いてみたいと思います。

対人恐怖症といえば、一種の神経症であると認識されることが多いと思いますが、
実際、人が怖いという感情は、多かれ少なかれ、誰でも感じたことがあるのではないでしょうか?

今回、対人恐怖症という疾患について、お話しする中で、
また、いつもの理屈っぽさで、
中満整体として、どのように、生理学的な理解をし、どのようなメソッドで施術を行っているのか、またその臨床は・・・・
と、始まってしまうと、ここで、読むのをやめてしまわれてしまうと思うので、
今回は、日本文化という視点で、対人恐怖症を考えてみたいと思います。

そもそも、この話題を今回思い立ったのは、約20年くらい前に読んだ
ある本の内容を思い出したからです。

岸田秀という博士の本を初めて読んだのは、私がまだ東洋医学の世界に入る前でした。

ある友人に勧められて読んだ、「ものぐさ精神分析」は、とても難しい本だという印象がありましたが、
次に読んだ「幻想の未来」という本に、私は、完全に”ガツーン”とやられてしまいました。

まず、対人恐怖について、この本には、こう書いてあったのです。

『欧米人とくらべ、日本人は昔から対人恐怖が強かったと言えよう。
そもそも、日本人は話をしているとき、あまり相手の目をみない。』

『浮世絵に描かれている日本の伝統的美人は目があるかないかぐらいに細いが、
これは人の視線恐怖を刺激しないということが美人の条件であったからであろう。』

『日本人は恥を書くことを非常に恐れる。
江戸時代の借金の証文に、もし期日までに返済できなかった場合には、
「万座の中で恥をかかされても致し方なし」というのがあったそうである。』

私は重厚長大時代に生まれているので、
正直、浮世絵の女性が美人と言われる文化や、
江戸時代の借金の証文などの文化は、さっぱりわからないのですが、
目線や恥に対する感覚は、日本人として理解できると思いました。

そして、さらに、こう続きます。

『日本人は、自我の安定を他の人たちに支えられて保っているがゆえに、
対人恐怖が強いのである。
自我の安定が、人に自分がどう思われるかということにかかっていれば、
人が恐ろしくないわけがない。』

これもまた、納得できますねー。

そして、岸田氏の洞察は、これからが、すごいところなんですよ。

『欧米人の自我が他の人たちの支えをそれほど非有用としないのは、
何か別のものに支えられているからである。
何か別のものとは、言うまでもなく、神である』

人からの評判とか、人にどう思われているか、より、神によって支えられている?
一体どういうことか?

岸田氏はこう続けます。

『一神教の神は復讐欲、嫉妬心が強く、残酷な罰をくだす恐ろしい神である。』

以下、聖書からの引用文で、いかに神が恐ろしい復讐を企んでいるのかという文章が続いているのですが…

つまり、日本人が人にどう思われるかということを恐れるのと
同じように、欧米人は、神から罰をくだされるのを恐れているということが書かれています。
つまり欧米人は対人恐怖の文化ではなく、対神恐怖の文化であるということです。
原罪、生まれ持って罪を持っている考えや文化は、欧米からきたものではないでしょうか?

そして、ここから、岸田氏の洞察は、にわかに、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの在り方に、近づいてきます。

『恐怖と恐怖症は違う。
恐怖が恐怖症になるのは、恐怖を感じる一方で、そのような恐怖は感じるべきではない。不合理だ、非現実的だ。馬鹿げているなどと思い始める時である。
恐怖、それ自体をおかしいと見ていないならば、恐怖症は成立しない。
恐怖症が成立する条件は、
ある対象に対する恐怖と、恐怖の葛藤である。』

いやー、参りました!
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスにどんどん近づいています!

日本文化として、
公の場所で、恥をかくのが嫌だから、借金をきちんと返済しようとか、
悪いことすると、村八分にされてしまうので、
善良であろうとするなどのように、
人にどう思われるのか、
悪く思われるのは嫌だという思いが、ストッパーになって、
ある意味、世の中のモラルなどが守られていたわけです。
人様の目線や、評判を恐怖に感じるということのもたらした利点とも言えます。

じゃ、いつ、日本の文化は、
対人恐怖から、対人恐怖症になったのでしょうか?

岸田氏はこのように続けます。

日本人の自我が引き裂かれてしまったのは、まさに、
1853年7月に浦賀沖に黒船が来航した時に遡ることができると。

日本人が、当然のように、あたりまえだった対人恐怖が、
これでは不合理だ。このような恐怖を感じるべきではない。
というような葛藤をもつことになった、出来事だったと書かれています。

脱亜入欧の時代です。
欧米諸国を日本が所属すべき世界とし、日本を欧米化しようとした。
これまでの日本文化としてのあたりまえの恐怖は、
感じるべきことではないこと、つまり、恐怖症になってしまったのです。
これまでしてこなかった、パッチリと目を開けて、相手の目をみながらお話する
という事をし始めたはいいが、そこで感じる恐怖を、感じまいとしたわけです。

すなわち、恐怖症とは、恐怖を感じまい、
この恐怖は、不合理であるという感情に裏打ちされており、
拒絶、拒否、葛藤がないのなら、成立しないということになります。

対人恐怖症とは、
恐怖が問題なのではなく、恐怖を受け入れないということが問題なのです。
ここで、受け入れることの大切を改めて理解することができます。
恐怖そのものが、文化の一部で有った時は、
恐怖は、葛藤をすべきものではなかったのです。
つまり、対人恐怖は、広く社会で受け入れられていたのです。
同様に、個人の心の中でも受け入れられていたのです。

では、
対人恐怖症、のみならず、
視線恐怖症、赤面恐怖症、表情恐怖症、醜貌恐怖症などの
恐怖症の治癒のプロセスを考えた時に、

「恐怖を感じまいとするのではなく、受け入れるようにするといいよ。
葛藤が無くなると、恐怖症ではなく、ただの恐怖になるから。」

という言葉をかけて、

「そうか!それは、いいこと聞いた!じゃ、今からやってみる。」
「お!やっぱり考え方次第だな!治ったよ!」

となるでしょうか?

考え方を変えるという作業を意図的に行ってみるのは、
素晴らしいチャレンジですが、
よし、変えてやろう!!
として、なんとかして、変えてやろうとするより、
肉体のレベルで、そして意識のレベルで、内なる生命力が、おのずと、方向を向き直し、
おのずと、いらなくなった葛藤を手放して行く方が、
はるかに効率が良いです。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスにおいて、
意図を使うことには、限界があるのです。
外側から変えることに限界があるとも言えます。
自分の意図は内側だ!と思われるかもしれませんが、
思考という意図は、大いなる智慧に比べると、わずかな効力しかありません。

脱亜入欧をした時代から国家レベルで、
つまり、日本人の集合意識として抱えてきていた対人恐怖を
不合理な恐怖として、感じるべきではない!
と思い続けてきたという葛藤があったのですから、
それを手放すためには、親から子の何世代にもわたる、
伝達された情報を、肉体の細胞レベルで、
また、世代間に伝わる意識のレベルで手放す必要があるのです。

つまり、総合的であって、大いなる智慧が、その葛藤を手放すのです。
総合的な大いなる智慧とも言えますし、
また、潜在的な健全さとも言えるでしょう。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスは、発生学に深い関わり合いがあります。
人の発生や誕生のプロセスを考えた時に、その智慧や、健全さの偉大さを感じないわけにはいかず、畏怖の念すら覚えるのです。

自分のものであろうと、他人のものであろうと、思考に基づく意図は、この智慧や健全さの前にしたら、ただの無力なものでしかありません。

自らの葛藤を手放す事
そして、その知恵や、健全さを、サポートするのが、
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスなのです。

これについての理論的な話をもっともっと書きたいのですが、書き始めると、また、理屈っぽい長文になってしまうのでやめておきます。

ご自身の内なる総合的で大いなる智慧、潜在的な健全さ。
体験してみたい方、ぜひ、中満整体HPより、お問い合わせくださいませ。
心よりお待ちしております。


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