2013年6月26日水曜日

夏の間ブログお休みします。

久しぶりのブログ記事となります。
実はここ最近、ずいぶんと時間をかけて、気持ちの整理整頓をしていました。

やりたいこと。そのなかでも必要だと思うからやりたいこと。少し大変そうだけど、やり遂げたいこと。面白いからやりたいこと。

そして、やらなければならないと思い込んでいたけれど、やる必要がないと気がついたこと。それらを手放すこと。

今回は、これらを基準にして整理整頓をしていました。

もともと、クラニオセイクラルに出逢う前から、やりたくないことは選択しないというライフスタイルでしたが、クラニオセイクラルに出逢ってからは尚更、こうして心の整理整頓や洗濯をしながら、自分のブレスオブライフに正直に、そして、よりリソース化できるライフスタイルを選択する事が習慣化されてきているようです。

��ブレスオブライフとは、ミッドライン①を、リソース化とは、リソース資源①リソース資源②をご参照ください。)

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まず、大変そうだけどやり遂げたいことへの気づきについてです。

2013年10月に、私の所属するクラニオセイクラルの協会に、研究論文を提出するという、私にとってとても大きな課題があります。
これまで、このワークに魅了されて、学び続けてきましたが、このように正式に書面にして研究してきたことを提出するとなると、改めて襟を正し、もう一度自分を振り返る時間をとる必要があるようです。

次に、面白いからやりたいことについての気づきです。

実は、2013年2月から始めたこのブログ記事を書くことは、私にとって、とっても面白いことでした。人との会話も楽しいのですが、自分の思いを一方的に記述して、公にさらすなんて、これまで経験したことのない、とても面白い体験でした。
時々、暇な時間に思いついたことを、ブログネタ帳にメモをして、記事が出来上がったら、ブログにアップする。
この作業が、ものすごい、面白かったのです!
でも、10月の論文の提出まで、この面白い事を取り上げてしまおうと思っています。
親が、テレビゲームばかりしてテスト勉強をしない子供に、試験が終わるまでゲーム禁止令を出すのと同じ事です。正直、論文を書くことより、ブログ記事を書くことの方が、断然面白い!ときてしまっているのですから、始末に負えたものではありません。

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最後に、やらなければならないと思い込んでいたけれど、実はやる必要がないと気がついたことなのですが、この気づきは、執着していたものを手放すという作業でした。
多少の痛みを伴いながら、ここ最近で、やや大きな物事を手放しました。

クラニオセイクラルのトレーニングは、解剖学、生理学などのいわゆる自分の内面的なものではない外的かつ理論的な勉強と、身体を使いながら体得していく実技の勉強を含みますが、最終的な意味でのクラニオセイクラルの勉強とは、自分を知ることだと私は思っています。
自分を知ることが、周囲の人々や物事を知ることに通じていると思うからです。

クラニオセイクラルの一回のセミナーでは、4、5日くらいのひと単位の日程を一ヶ月に2セット、通常の生活の時間を離れ、クラニオセイクラルの学びの時間の中に入り込むのですが、そのセミナーでも同じように、理論と実技の勉強のみならず、私にとっては自分を見るという心のトレーニングも大切な学びの一つでした。

通常体感している時間の流れより遥かに精妙で濃密になっていくトレーニングの場で、自分に気がつく事、そして執着を手放す事は、私にとっては痛みを伴います。

しかし、執着することに消耗していたエネルギーを自らの命の輝きに使うことができるようになることを体感していく価値ある時間でもあります。

執着を手放すというより、執着している自分に気がつくという表現の方が、私の思いに近いかもしれません。

なぜならば、気がつく時点で、すでに手放している状態になり始めていると思うからです。

これまで、背負い続けてきた重荷を、トレーニングの場で一つ一つ降ろし、それまで味わっていなかった自由に、最終的には気がつく体験だと表現することもできます。

トレーニング中の心身の変化は、その後に、日常生活に戻ってから、具体的で、目に見え、手に取れ、感じ取れる変化へと変容していきます。心身の状態が現実を作るのだという事をしみじみと実感することができます。

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クラニオセイクラルの用語ではありませんが、
私が、守破離という言葉を初めて聞いたのは、つい2年くらい前の事だったと思います。
この言葉の意味を知り、それまでの一つひとつ、ばらばらの経験が、一つにつながったように感じました。

wikipediaでは、このように説明されていましたので、ここに引用いたします。

ここから--------------------
守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本においてこれらの文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。

まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。
--------------------ここまで


このように、守破離とは、伝統芸能を学び修得する過程を表現し、それが学問や、仕事などにも通ずると言われていますが、私は、この執着を手放すという事において、守破離という思想を活用することができると思っているのです。

もともと、クラニオセイクラルは米国で発見されていて、日本の伝統文化などとは関係なく発展してきている、いわゆる輸入学問を私達は学んでいるのですが、英国にインスティテュートを設立されたフランクリン・シルズ博士(米国人)は、数多く携わる博士の中でもとりわけ東洋思想に精通されており、ご自身のウエブサイトや文献においても、仏教に関わる記述が多く見受けられます。
そして博士は、クラニオセイクラルの中の、私が学んだバイオダイナミクスの発展に大きく関わる方でもあります。
博士が守破離という思想をご存知かどうかはわかりませんが、私達は、せっかく日本人として生まれてきたのですから、この日本の思想を上手く西洋由来のクラニオセイクラルのフィールドにて活用し、我々東洋人におけるクラニオセイクラルをさらに深める事ができるとしたら、それはとても素晴らしいことだと思っています。

ということで、次回、おそらく秋頃には、この日本の思想を上手くクラニオセイクラルで活用するという記事が書けたらと思っています。
それまでは、中満整体公式ホームページにて、改めてバックナンバーを時折ご紹介させていただきたいと思っていますので、ぜひご訪問ください。
バックナンバーのご紹介はこちら

ひき続き、セッションは行っておりますので、ご興味のある方は、ぜひご連絡くださいませ。心より待ちしております。

次回まで少し時間が開いてしまいますが、それまでの間、論文を書きながら、日々さらにパワーアップ、バージョンアップを目指し、より満ちたクラニオセイクラルを提供できるよう精進していきたいと思っています!


そして、先ほど話題にでました、クラニオセイクラルバイオダイナミクスのトレーニングにご興味をもたれました方がいらっしゃいましたら、こちらをクリックしてください。
クラニオセイクラルバランシング バイオダイナミクスアプローチ
2013年10月から新しい講座が始まります。その前のイントロダクションは幅広く皆様にお奨めしたいです。
日本で様々なクラニオセイクラルの教育団体がありますが、BCSTという正式なバイオダイナミクスクラニオセイクラルセラピストのディプロマが取得できるのは、日本国内では、こちらの団体のみです。
基礎コースでは、木村先生が、そして上級コースでは、スイス人のバードレーナ先生が担当されます。
上級コースでは通訳の方もいらっしゃいます。


では、また秋にブログを再開しますので、それまでのしばらくの間、中満整体バックナンバーのご紹介に是非お付き合いください。

ここまでお読みくださって本当にありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年5月24日金曜日

リソース 資源② やや積極的解釈 人の内側にある、満ち溢れて枯れない源泉

以前のリソースにまつわるブログに引き続き、今回また、リソースに対する私の思いを書きたいと思います。

前のブログリソース資源①で、ご紹介しました、クラニオセイクラルのセッションにおける、リソースとは、

「安定感や落ち着いていて安らぎを感じる内的、外的要因であり、それが具体的に身体の感覚と結びついている場合は、そこからサポートを得られ、神経系のバランスや自己調整を助けることが出来ます。」

と、このように書きましたが、そのリソースを思い起こさせる、かつて見た事のある光景を思い出しましたので、そこからまたリソースのお話をしたいと思います。

私は、子供の頃、某歯科大学病院の小児科に通っていたのですが、受付には必ずぬいぐるみなどが置いてありました。
そして、成人してから通った歯科クリニックにも、口腔を照らすライトのすぐ横に小さなぬいぐるみがくっついていました。

歯科治療が嫌いな子供の持つ、恐怖に満ちた歯科治療のイメージを払拭しようとする試みなのでしょうか?

または、注射や、歯を削るなどの恐怖感をそのぬいぐるみの可愛らしさが拭い取り、暴れたり叫んだりする子供をリラックスさせ、少しでも安定した状態の中で、治療をしやすくしようという事なのでしょうか?

もし、そうだったとして、なおかつ、それがその通りに、子供にとって上手く作用した場合は、そのぬいぐるみは、まさにリソースとしての役割を果たしたということになります。

つまり、このぬいぐるみというリソースが、注射を打たれ、歯は削られるなどという苦痛、または危機的な状況からサバイバルするために、役に立ったということです。

この状況は、クラニオセイクラルのセッションに共通していている部分があります。

トラウマタイズされてしまった身体の組織やエネルギーが、変容していくプロセスにおいて、私たちセラピストは、トラウマの痕跡を持ち、苦痛や危機的な記憶を持つ組織と、身体全体を、安定の場と共に保持することが重要な要素となります。

ただでさえトラウマタイズされている組織が、万が一、またトラウマになってしまうかもしれないというような、危機的な状況の中にまた置かれてしまえば、解放などありえないのですから、その場合は、受ける方のシステム自体が、おのずと変容に向かうプロセスを進めるはずがないでしょう。

だからこそ、セッションの前に、安定感をもたらすリソースを確認します。

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それらを踏まえた上で、今回は、少し積極的なリソースの解釈になります。

先ほどの話では、ぬいぐるみは、歯科治療をしやすくしてくれました。
ぬいぐるみは、安心感をくれて、治療しやすい状況を作ったという功績はあるものの、ぬいぐるみによって虫歯が治ったわけではなく、あくまで、ぬいぐるみはサポートです。

セッション中には、さまざまことが起こります。
実際に、セッションを必要とする方は、安定をもたらす身体的な部位など無いところからのスタートとなることもあろうかと思います。
セッションを有意義なものにするためも、安定感を感じられるのであれば、ぬいぐるみでも何でも使ったらいいと思うのです。そして時にセラピストである私自身がリソースの役割になってもいいと思うのです。

しかし、外的な要因である、ぬいぐるみやセラピスト無しでも、今、ここにある状態になり、安心感や肯定的な身体感覚とつながり、さらに最終的には、いつでも自在にその状態に意図してなれることが、とても大切なことであり、それがまさにセッションを重ねる事の恩恵ではないかと思っています。

そして、その状態をリソース化された状態と私は解釈しています。

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さらに以前のブログリソース資源①では、
resourceリソース資源とは、
もともとつながっていた無限に発生するsource源、基点から、
re-(接頭語で分離を意味する)切り離され、
一人ひとりに与えられた、命の使命や美しさと書きました。

つまり、切り離されている、ということは、リソースに意識的にならないと、ソースsourceから切り離されたままになりやすいということでもあると思うのです。

意識的にならないと、財宝である、リソース資源を見失いやすいということでもあると思っています。

たとえば、受動的な形で、周囲の人に自分自身の何かしらの資質を褒められたり認められたとしても、そこに自分自身の喜び、そして満たされた感覚や感情がなければ、リソースとして成立しないでしょう。

だからこそ、自らが能動的に、積極的に、Source、無限の創造の泉に自分から歩み寄って、自分に与えられたリソース資源を、何度でも、何度でも、確かめることがとても大切だと思います。

接頭語のre-をもう一度、辞書にて調べて見ると、
離れるという意味もありましたが、再び、新たに、繰り返して、という意味もありました。

リソースresource資源とは、ソースsource源泉から一度離れて、独立した個人に授かるもの、という解釈も出来ますし、
再び、ソースsource源泉に歩み寄り、その都度、新たに、自らに与えられたリソースを確認する、
そして、繰り返して、ソースsourceからの恩恵を受け続けることが出来る。
そのように解釈することも出来ます。

それをサポートすることが、クラニオセイクラルセラピーであり、瞑想であり、自分をみつめるということだと思っています。

(ジーニアス英和大辞典参照)

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以前のブログ、ニュートラル② 関係性のニュートラルでもお話したのですが、家庭や社会での人間関係のニュートラルが崩れること、そして国家間の関係性のニュートラルが崩れるということは、このリソースのあり方に大きく関わっていると思っています。

そもそも、戦争が勃発する要因の一つとして、自国にないリソース資源を搾取するために、侵略をするという背景が考えられます。

つまり、"自分達は持っていない。だからどこかから奪い取らねばならない。"という考えのもとに、国家間の争いが発生してきました。

それと同じようなことが、個人のレベルで起きると思っています。

だからと言って、多くの人は、素敵なお宅を見て、自分にはないからという理由で、強盗に入ったりするわけないでしょうけれども、

例えば、お金や職場環境、社会的地位や立場などを通しながら、間接的に、いずれ物質レベルになりゆく奪い合いは頻繁に起きています。

また無意識的なエネルギーレベルで、個人と個人が関係性のニュートラルを崩しながらエネルギーを奪い合う背景が、考えられます。

競争によって、勝つものと負けるものが作られるこの民主主義という構造からしても、それらは当然、発生しやすいと考えられます。

自分は持っていない、奪い取らねばならないという状態は、リソースから切り離されている状態、つまり、安心感の無い、不安な状態であるのです。

1995年に出版されました、『聖なる予言実践ガイド』より、権力闘争と言われるエネルギーの奪い合いについての文章を引用します。


権力闘争

『人間はほとんどの場合、聖なるエネルギーの源から切り離されており、そのために無力感と不安感を感じている。エネルギーを得るために、私たちは他人の注意を無理矢理自分に引きつけて、エネルギーを盗もうとしがちである。こうしてうまく他人を支配できた時には、私たちは自分が強くなったように感じるが、相手のほうは力を失ったように感じ、しばしばそれを取り戻そうと戦いを挑んでくるものだ。限られたエネルギーを奪い合う競争こそ、人々の間のあらゆる争いの原因である。』


そもそも、自分は持っていない。というのは、このクラニオセイクラル、バイオダイナミクスの理論において、まさに幻想であると言えます。

以前のブログ、ミッドライン①でご紹介した、受精卵だった頃、原始線条が現れる際の比喩表現、ブレスオブライフ(命の息吹)のお話でも触れましたが、今、この地球上に命がある全ての人は、それぞれ神様によって命の息吹が吹きかけられているのです。

原始線条がなければ、背骨もないですし、中枢神経もなく、生きてここに存在できるわけ無いはずです。

つまり、私たち人間は全員、受精卵の頃にすでに、その生命の青写真、個性や、誕生する使命、そして命の輝きが与えられているのです。

奪い合いに巻き込まれる事なく、いつでもリソースに着地できる事が、自分自身のリソースを活かし、また、周囲の人や社会に還元できるという好循環をうみだすのだと思います。

そして、だからこそ、神様でも何でもない、私達人間は、何度でも、何度でも自分の内なるリソースに歩み寄り、確かめる事が必要があり、リソース化とは、自らの、そして他者の幸福への最低限の責任でもあるとも思います。

もっとリソースについては書きたいことがたくさんありますが、長くなってしまったので、一旦ここで終わりたいと思います。
長文にお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年5月5日日曜日

プレゼンス、それは贈り物。今この瞬間に存在する、壮大なプレゼント。

プレゼンスであること。今この瞬間に存在すること。
これも、初期に教わる、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの本質であり、欠くことのできない必須の教えです。そして、生涯をかけるに値する、奥行きのある学びです。

あまりにも壮大なテーマであるため、先延ばしにしてきたのですが、少し、このプレゼンスに対する私の思いを書いてみようと思います。一回では全て書けなくても、段階的に、これから先、私の理解が変化していきながら、その時の私にとってのプレゼンスのお話ができたらと思っています。
寛容におつきあいいただけますと、とてもうれしく思います。

もし、私がクラニオセイクラルに出逢っていなかったとしたら、今、この瞬間に存在することは当たり前のことであり、願っても昨日に戻ることは出来ませんので、難しい学びだとは思うはずがないと思うのです。しかし、クラニオセイクラルを学ぶにつれて、今にいることはそんなに簡単なことではないと身をもって体験してきました。

以前のブログ、バウンダリー①でもご紹介しておりますが、実際、脳は過去からの記憶で今を判断する機能があり、今をありのままに受け止めることは簡単ではない事でした。

さらに、人は、あまりにも苦痛が続くと希望的な観測に基づく未来にも飛んで行く事もあるように思います。
私にも身に覚えが多少ありますが、例えば、“採らぬ狸の皮算用“ということわざがあります。まだ仕留めてもいない狸の皮がいくらで売れるのかを計算し始め、しかも、その稼ぎで何を得ようかと考え始めるような状態は、すでに今にいない状況でもあり、まさにプレゼンスの状態から外れてしまっています。

しかし、それでも、人は、今に在る事ができると信じています。

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プレゼンスについて学んだ以前のセミナーでの、とても象徴的なエピソードを少しご紹介したいと思います。

そのまえに、
先生が外国人の方であるために、その時、言葉の行き違いが少しあったかもしれないので、
プレゼンスとプレゼントの言葉の違いについてお話をします。

同じように現在を意味する2つの単語、プレゼンスとプレゼントがあります。
プレゼンスpresenceは名詞形で、主に、今存在することという意味ですが、
プレゼントpresentは形容詞と名詞形があります。
形容詞として、The present situation“現在の状況”だとか、
The present moment ”現在の時点“のように使われ、名詞を修飾する形です。
名詞としては、presentで、現在を表すそうです。

まず、最初に先生が生徒たちにこのように質問をしました。
「プレゼントとは何ですか?」
と尋ねました。すると一人の生徒は、
「贈り物です。」
と答えたのです。

先生は、プレゼントpresent名詞形での現在として質問をしたのだと思います。
しかし、その生徒は、もしかしたら、バースデイプレゼント、だとかクリスマスプレゼントとかのプレゼントpresent (現在を意味するpresentと同じ綴り)と間違えて答えていたのかもしれません。
先生も、その回答を聞いた瞬間、それはプレゼント違いだよ、と途中まで、おっしゃいながら、言葉を噤みました。そして、その後少し立ち止まり、深く頷きながら、納得したかのように、
「あーそうだったのかー。」
とおっしゃいました。
先生は、その“贈り物です”という回答は、間違っていないのだと、しばらく考えて実感されたのでしょう。
その生徒の答えは、私達にとっても、偶然がもたらしたプレゼンスへの理解のヒントになりました。

そして、人としても、セラピストとしても、今に存在することは、自分自身にとっても、周りに対しても多くの贈り物を与えられるようなものなのかもしれない。とその時の私は理解しました。

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私は、ヨガを習っています。そして、時々、お寺の和尚さまと一緒に座禅をしたり、説法を聞いたりすることがあります。特に、どこかの宗派にこだわっているのではなく、ご縁があったお寺に足を運び、機会があれば、お話も聞くという程度で、本格的に修行をするなどの大掛かりな取り組みではありません。

その時に出会った、ヨガの先生のお話や、和尚さまのお話が、ずいぶんプレゼンスである状態を得るための助けになっていたように思いますので、その内容を含めて、すこしお話が出来たらと思います。

先ほど、プレゼンスの意味は、今ここに存在することと書きましたが、もう少し、はっきりと理解するために、辞書にて調べてみました。
プレゼンスとはPresenceと綴り、多義の単語であり、たくさんの定義が記載されていました。
他にも定義がありましたが、大きく分けるとこの2つに分類できました。

1、存在すること。今ここにいること。あること。
2、堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力

まず、1番目の定義、“存在すること、今ここにいること。あること。”について。

ヨガをやっているときは、ある種の瞑想状態になります。
先生は、このようにおっしゃいました。

「ヨガは形ではないのです。今、ここにいるということなのです。私たちの思考は、過去に言ったり、未来に行ったりしてしまいます。何度も何度も繰り返し同じ型(アーサナ)をとりながら、思考がとまり、そこに呼吸が流れ、自然に体が呼吸に乗れる状態になり、私たちは今ここにあることができます。」

ヨガを始めた頃は、基本的な型を学ぶことで精一杯でした。本当に最近ですが、この先生の教えの意味がわかりつつあるのです。それは、クラニオセイクラルに本当によく似ています。
思考をとめることは、今にあることの大きな手助けになります。
さらに、通常の肺呼吸を繰り返しながら、やがて原初の呼吸を感じていくプロセスは、クラニオセイクラルのセッションと類似した場すら感じることがあります。

そしてまた、禅の和尚さまはこのようにおっしゃっていました。
「瞑想は、積み上げ方の勉強ではなく、今、座ったかどうかなのです。
20年座ってきたとしても、たった今座ったかどうか。それだけです。」

私はまだ上手に座れませんが、和尚さまは、あぐらのように座り、さらに両方の足の裏を天井側にむけて座っています。そしてその座る姿は美しく落ち着いていて、深い安定感があります。座るための体を作るために10年はかかるとおっしゃっておられましたので、そうとうな修行をしてこられたことと思います。しかし、驚いたことに、積み上げ方の勉強ではないとおっしゃるのです。
過去の経験ではなく、今この瞬間の大切さを私たちに教えて下さろうとしておられたように思います。
経験を積むという表現には、熟練を表すプラスの意味があると思っていましたが、禅においては、経験も過去の一つなのでしょう。

次に、2つめの“堂々とした、落ち着いた態度、貫禄、個人的な魅力”という定義について。

先ほどの和尚さまではない、別の禅寺で出逢った和尚さまは、瞑想をするための座り方についてこのように説明されました。
「座り方は、仏像を手本にしてください。」
百聞は一見にしかず、とはこのことではないでしょうか、仏像は、本当に落ち着いていて、しかも堂々としていて、貫禄を感じます。
座り続け、今にあり続ける姿勢の模範とも言えます。

ヨガの練習においても、上手く原初の呼吸に乗れると、肩などに入っていた力みが自然に抜けるようになります。仏像は、どう見ても、肩に余計な力みが入っているようには見えません。
生き生きと命がここにあるようなライブ感すら感じることすらあります。
私のクラニオセイクラルのセッション中の姿勢の理想像はまさに仏像です。
ミッドラインがまっすぐ天と地に伸びていて、美しい姿勢です。

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この様に、私はまさにプレゼンスである状態への学びの途中であります。
ごく自然な形でその学びは、瞑想への学びと変化しました。
そして、その学びの途中で、見て感じてきたその風景には、たくさんの贈り物がありました。

普段通っていた道で、花や果実を見つけて嬉しくなるときのような・・・。
そして、普段の生活では見る事のできない海底の色とりどりの美しい風景の中にいるかのような・・・。
私の言葉では、その感覚を上手く表現できないので、その代わりに、oshoというインドの神秘家の言葉を引用します。


『独りであることを愛せないなら、恋人しか愛せないなら、まだ本当の成熟ではない。そのとき、愛することさえ誰かに依存している。誰かがいなければならない。そうして初めて、愛することが出来る。こういう愛情はまったく表面的なものでしかありえない。それは自己の本性ではない。』

『瞑想すれば、遅かれ早かれ愛に出会う。深く瞑想すれば、遅かれ早かれ、かつて知らなかったほどの大きな愛が生まれるのを感じるようになる。あなたの存在に新しい質。新しい扉が開く。
静寂という精妙な質が入り込んでいる。思考が消え失せ、すき間が現われる。静寂―。』
                                         新瞑想法入門より引用

実は、私を導いてくださった、クラニオセイクラルの先生方は、皆このoshoによって導かれています。
私は先生方がどのように、今在るということを学ばれたかを知りたかったのか、この本はその足跡をたどるかのように読んだoshoの本の中の一冊です。
私が学生のときに、oshoはすでに他界されており、私は本でしか知りませんが、多くのoshoの弟子、サニヤシン達は瞑想を基礎とした様々なボディーワーカーとして国内外で活躍されています。
私も大いに彼らの影響を受けていると思います。

また、長くなってしまいました。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年4月21日日曜日

リソース 資源① 世界中に資源があるように、全ての人の内側には貴重な資源がある。

今回は、クラニオセイクラルのリソースという概念について、これまでの代替医療、またはセラピーの分野のお話から、ほんの少し経済の分野に話題を広げて見たいと思っています。
しかしながら、いちセラピストの未熟な経済についてのアイデアでありますため、もし、どなたか、経済のご専門の方がこのブログを目にされ、更なる名案または私に欠けている知識などを発見されました際には、メールなどにてご助言をいただけますと大変嬉しく思います。

それでは、表題にもあるリソース、資源という用語はどのようにクラニオセイクラル・バイオダイナミクスにおいて使われているのかを、すこしだけお話しますが、その前にクラニオセイクラルセラピーの代替医療における立ち位置についてのお話から始めたいと思います。

実は、クラニオセイクラルのセラピーでは、何らかの症状、不調を取り扱い、そこにアプローチをするということは行なわないのです。
クラニオセイクラルセラピーは、あくまでその生命体の健全さに対しての信頼を持ち、見守るというスタンスをとっている代替医療であり、直接、病気を取り扱うのとは少し意味合いが違っています。

医師は、病気を診断し、治療計画を立て、お薬を処方し、必要であれば、外科手術なども行う、いわば、病気を取り扱うことが出来る専門家であります。
しかし、私たちは病気の専門家ではない代わりに、むしろ、その命の持つ健全さに対しての専門家であるべきだと思っています。

その健全さについてでありますが、健全さと言う目に見えないエネルギーはクラニオセイクラルのセラピーでは様々な言い方で表現され、それぞれが身体上に現われるのを感じることが出来ます。
ブレスオブライフ、ポーテンシー、プライマリーレスピレーション、タイドなど、それぞれに、ここに今、命があるということを表現しているのです。
(これまでのブログの中で、ブレスオブライフはミッドライン①で、
プライマリーレスピレーションはその名のとおりプライマリーレスピレーション 原初の呼吸①にて少しご紹介させていただきました。)

そして、その健全さは、たとえその命が死に直面していたとしても存在すると考えています。
クラニオセイクラルには、イグニッション、点火のプロセスという概念があります。
この表現もクラニオセイクラルセラピーの専門用語の一種であり、
大まかに説明しますと、最初の生命への点火とは、受精の瞬間です。次は、母体内で心臓が動き始めるとき、最初の生命エネルギーへの点火が起こり、次に、肺呼吸を始めるとき、そして最後に、他界するときに命に火を灯し、最後のエネルギーを振り絞ってこの世を旅立つといわれています。
 

死の間際の点火だとしても、それは命がここにあるという証であり、そして、たとえ病に冒されていたとしても、死という変容を乗り越えていくだけの潜在的な命の逞しさを備えており、身体に何があっても、今ここに健全さは存在するという考えの元にある、セラピーであると言ってもよいと思います。

誤解を避けるために、一つ付け加えさせていただくのであれば、
医師の診断と治療が必要な方に対して、このセラピーが有効であると言いたいのではなくて、「私は、その命がどんな状況であっても、生きて今ここに存在することに、健全さを見出せるセラピストでありたいという意志を持っています。」という意味で、当然ながら、深刻な病を持つ方は、然るべき専門医の診断と治療が必要でありますし、私たちもそのように指導をされています。

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ということで、これからのお話は、私たちセラピストが扱える場合についてのリソースのお話です。前置きが長くなりましたが、ようやく、リソース、資源という用語についてのお話をいたします。

もしも、今ここにたとえば、不調や疾患があったとしても、それだけでは決してなく、私たちは、安定している部分、または落ち着いていて安らぎを感じる外的な要因、または内的な感覚を見出すことができます。
環境や持ち物、周囲の人間関係など外的な要素に安らぎと安心を見出せる場合や、
自分の内側の感覚、これまでの経験や、内的な感情や、感覚や記憶などに安定感を持つことが出来る場合などがあります。
これらの不調や疾患ではない、安定している部分とそれを引き起こす要因をリソースと呼んでいます。
そのリソースを具体的にセッションで使用する時、その感覚が、どこかの身体の感覚と結びついている場合は、そこから安定感のサポートを得られ、神経系のバランスや自己調整を助けることが出来ます。

この様に、不調にフォーカスすることをする代わりに、より安定している部分や、肯定的に感じる部分を見出していくことがセッションの中でとても有効であるため、セッションの前に今日のリソースは何かというところを確認してからのスタートになることが多いと思われます。リソースはセッションの最中でも変わることがあり、セッションの度に、必要であれば、セッション中にでも改めてリソースの確認をすることは有効だと考えられています。

ここまでが、実際のクラニオセイクラルのワークで使われるリソースの役割です。

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さて、ここからは、またクラニオセイクラルの専門書には記載されていない、私の個人的なリソースの理解についてのお話になり、独自の解釈で経済のお話まで飛んで行きたいと思います。

では、リソース資源とは英語でresourceと綴ります。
re-という接頭語を切り離して見ると、ソースsourceという言葉になります。

sourceとは、ラテン語surgere立ち上がる、源を発するという意味の言葉が語源で、「発生する基点」という意味だそうです。
そのほか、物事の源、源泉、根源などの発生の源を意味し、水源地、や湧き水、また物理学においては、電気、光、音、熱、放射線などが発生する源を表すと記載されていました。
(ジーニアス英和大辞典参照)

sourceの私の個人的なイメージとしまして、万が一、温泉や油田を掘り当ててしまったとしたら、source発生の基点を掘り当てた場面を想像することが出来ます。
それは、終わることなく、天然のお湯や、油が湧き出てくるかのようなイメージです。

そして、2011年の福島第一原子力発電所の爆発事故や、チェルノブイリ原発事故、広島、長崎の原子力爆弾の投下などにより、大地が焼け爛れたにもかかわらず、母なる地球は、たとえ痛めつけられても、内側から際限の無い大地のぬくもりを放出し続け、木々や人々に癒しや栄養を与え続けるという無限の暖かさもsourceのイメージの一つです。

また、芸術の分野において、たとえば、高山に舞い降りる雪の結晶の完璧なデザインを見て、何か神がかり的な芸術の発生の源泉から現われているというような、とてつもなくスケールの大きい神の作品を連想し、終わりない美の存在や完璧なアイデアの宝庫を感じることも出来ます。

さらには、私たちが所有しているこの人体に関しましても、知れば知るほど、その完璧な設計に驚かざるを得ないと実感するときに、そして未知なる医学的真実が他にもあると想定するときに、私たちも神の作った完璧な機能を持つ一つの芸術なのだと捉えられ、この人体もsourceの一つのように感じられるのです。

そして、リソースresource(資源)は、このsource(源)から切り離され、(re-という接頭語は分離を表すそうです。)全ての発生の源から、一人ひとりにその命の使命や美しさを全うするためのツール、つまり資源であるリソースが渡されていると私は解釈しているのです。

たとえば、無限に放出する源の中から、たくさんの生命体が分離して、一人ひとりに役割と、必要なツールが授かるかのようなイメージです。

全てを兼ね備えた源泉から、たくさんの役割をもつ人々が放出されるというイメージとも感じます。

ある人は、芸術を志すために、繊細な心と鋭い着眼力を持ち、ある人は政治を志すために、正義感と指導力を持ち、ある人は、発明をするために、創意工夫の能力やユーモアセンスを与えられるといったように。
与えられるという表現がいいのかわかりませんが、自分自身で選択してツールを開発することも新しいリソースの開発につながると思っています。

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そこでです。
なぜ、経済のお話につながるのかと言うと、そもそも日本は資源が全く無い国でした。しかしながら、第二次世界大戦後、多くの日本企業の創始者が組織を作り、重厚長大時代を迎えました。
手先が器用で職人気質でもある日本人のクリエイター達の創造したmade in Japan productsはたちまち海外のマーケットシェアーを高めていき、日本は驚くべき経済成長を達成しました。
世界からは、日本の戦後の復興のみならず、目覚しい経済の成長振りに驚きのまなざしで見られていた時期がありました。
しかし残念ながら、バブル経済がはじけた頃をピークに状況は一変し、現在長く続く、経済の低迷の中を暗中模索しています。

時々、社会保険庁から送られてくる、あなたの年金のお知らせにも、ぞっとするような価格の年金額のお知らせが届きます。
国民年金を支払わない若者たちが増えているのも、理解できるような気がします。

日本人はとても働き者で優秀だといわれています。
しかし、私は、30代から50代くらいの働き盛りの人たちが、本当にご自分の天性の才能や使命を全うしていて、それが世の中に反映されているのかどうかと言うところに大きく疑問を持っているのです。
世の中自体が、保守的になり、新しい才能を受け入れることが困難なのかもしれませんし、一人ひとりが、大きく挑戦するリスクを背負うよりは現状維持を選択せざるを得ない時代なのかもしれません。
だからといって、バブル経済の頃に、一人ひとりが自分自身の才能を開花させていたかと言うとそういうわけでは無いようにも思いますので、時代に関わらず、自分自身のリソースを開発させていくことは、外的な要因にはことさら関係は無く、その個人の在り方によるとも感じられます。

もし、今現在、たとえば、日本の国民の半分の一人ひとりのヒューマンリソース、つまり個人のリソースが暗闇に埋もれてしまっているのであれば、そのリソースを開発し、それが発揮された時には、ぞっとするような年金額ではなくなるでしょう。
日本は資源の無い国だからこそ、人の才能を資源とした社会を作っていくことで、
全体としてのヒューマンリソース、人事を整え、そして発揮していくことが大切なのではないでしょうか。

戦後の復興から立ち上がることの出来た、私たち日本人の大先輩達が達成した事を、私たちの世代が、もう一度成し得ることは出来るのではないでしょうか。
もちろん、個人のリソースが発展途上の状況であるのは私も同じであり、だからこそ、クラニオセイクラルを通して、自分自身や同世代の仲間達のリソースを耕すことに貢献ができたらと願っています。

そして、もし、これをお読みくださっているあなたが、ご自分のリソース、無限の創造の源から分けられた、天賦の才能をさらに磨き、自己を啓蒙していかれたいと思われていたら、クラニオセイクラルのセッションがサポートになると信じています。

私は、データー入力をするために生まれてきたんじゃない!と感じておられる方。
やりたいことがあるが、自分の内側の直感にしたがっていいのかわからない!と感じておられる方。
セッションを受けることで、ご自分自身の内側から自ら答えを見出すためのサポートが出来ると信じています。

クラニオセイクラルのセッションは、病気へのアプローチではなく、その方の命の輝きへのアプローチであります。
人は病気から学ぶことも出来ますが、まず自分が自分らしくあることを大前提とした療術でもあり、
ご自分の内側に眠る宝の宝庫から学び得ることをサポートすることが出来るのです。

ここまでお読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年4月2日火曜日

記憶からのメッセージ ホイットニー・ヒューストンさんの「the greatest love of all」

実はここ最近、特に機嫌が良かったというわけでもないのに、時々、鼻歌を歌っていました。
心の中にどこかで聞いたことがあるメロディーが浮かんでくるのですが、誰の曲か、どんなタイトルか、しばらく思い出せずにいました。浮かんでくる歌詞を時々思い起こしたりして、しばらく考えたりしながら、ようやく、先日、思い出しました。

今は亡き、ホイットニー・ヒューストンさんの「the greatest love of all」という曲でした。まずは、このタイトルを歌いながら先に思い出し、ようやくすっきりしました。

ホイットニー・ヒューストン the greatest love of all

私は彼女の大ファンであったというわけでもなかったのですが、一度だけ、ケビン・コスナーさんと共演された、「ボディーガード」という映画を見たことがあり、その映画のサウンドトラック版のCDも、もしかしたら一緒に購入していて、その中にあった一曲かもしれない、というくらいの、ハッキリしないような記憶のなかにある曲でした。

しかし、ボディーガードという映画にはとても感動しました。
映画の内容と、彼女の歌がマッチしていて、スタイル抜群のホイットニーさんを劇場で見たときは、アフリカンアメリカンの女性は、こんなに綺麗なんだなぁ、とうっとりさせられましたし、ケビン・コスナーさんも、「ダンス・ウイズ・ウルブス」の頃より、少し円熟味帯びていて、お二人とも絶好調の時期に撮影された作品だったと思います。内容は、異人種間の愛、そして、スーパースターとボディーガードという関係の中で、踏み込んではいけない愛に踏み込んでしまうという内容のラブストーリーです。

ホイットニーさんの役は、現実の彼女と同じ、スーパースターの役。トップスターの孤独を持ちながらも、気丈にご自分の高みまで上り詰めていくという役柄。そして、ケビン・コスナーさんは、ストイックで隙を見せないボディーガードという役柄です。

私が思い出したこの曲も、ホイットニーさんの役柄、実際のスーパースターである彼女の内面が反映されているのではないか?とも思ったりしています。

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「The greatest love of all」の歌詞をここにご紹介します。

I believe the children are our future
Teach them well and let them lead the way
Show them all the beauty they possess inside.
Give them a sense of pride to make it easier.
Let the children’s laughter remind us how we used to be.
子供達は私たちの未来。
よく教えてやり、導いてやり、
子供達の内側に持っている全ての美しさをみせてあげて、
そして、彼らに自分を誇りに思うことを教えてあげることが、
子供達の未来を切り開くことを助けるでしょう。
子供達の笑い声が、私たちが昔子供であったということを思いこさせてくれる。

Everybody is searching for a hero.
People need someone to look up to.
I never found anyone who fulfill my needs
A lonely place to be and so I learned to depend on me,
I decide long ago never to walk in anyone’s shadows.
If I fail, If I succeed at least I live as I believe
みんなヒーローを探している。
尊敬できる誰かが必要だから。
でも、私は、私を満たしてくれるような人を見つけ出せなかった。
寂しいこともあったけれど、私は自分自身を頼るということを学んだの。
私はずっと前に、他の誰かの面影を生きないと決めたの。
もし失敗しても、成功しても、すくなくとも、それは私が信じるように生きるということだから。

No matter what they take from me they can’t take away my dignity.
Because the greatest love of all is happening to me
I found the greatest love inside of me.
The greatest love of all is easy to achieve.
Learning to love yourself, it is the greatest of all
たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。
なぜなら、私の中で、全ての中で最も偉大な愛が生まれているから。
私は、最も偉大な愛を私自身の内側で見つけたの。
この世で最も大きな愛を見つけることは、簡単に達成できる。
自分自身を愛すること、それを学ぶことが何より一番尊いことだから。

And if by chance that special place
that you’ve been dreaming of lead you to a lonely place,
Find your strength in love.
そして万が一、あなたがずっと夢見ていた事が、思わぬ結果になってしまっても、
あなた自身が、愛の中にたたずむことで、強さを見出すことが出来るから。

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英語が得意な方は、原文でお読みください。かなりの意訳になってしまってお恥ずかしい限りです・・・。

じっくりと訳して見て、こんな内容だったのだと再認識したと共に、私は、なぜ20年も前に聞いた、うろ覚えの曲を思い出したのだろうか?という疑問が湧きました。

そもそも、この歌詞にあるように、
「たとえ誰かが奪おうとしても、だれも私の尊厳を奪い取ることが出来ない。」
こんなこと、言ってみたいですよ。こんなこと言えるのは、ホイットニーさんだからでしょ。と言いたくなる気持ちを抑えつつ、このdignityという言葉、実は、私はとても好きな単語です。
確か、オバマ大統領も就任演説でdignityという言葉を使っていたような気がします。

日本には、謙遜を美徳とする文化があるため、尊厳や自尊心などという単語を頻繁に使うのをためらいがちになります。あえて尊厳や自尊心という言葉以外の日本語でdignityのイメージを表現をするのであれば、
「私はお天道様に顔向けできないような生き方をしてこなかったです!」
そう胸をはって、選手宣誓のように手を挙げながら、公に自分の誠実さを宣言するような、そんな感覚に近いようなイメージを持っています。
実際には、そのような光景はそれこそ選挙活動のような場面以外では、見たことがないのですが・・・。

そして、もっとも偉大な愛という表現について、これもまたうろ覚えで恐縮なのですが、多分、ひろさちやさんの本だったか…、もしかしたら五木寛之さんの本だったかも…?いや、もしや遠藤周作さんか…?とも思うのですが、このような記述があったのを覚えています。

これまで日本には、愛という言葉は無かった。愛という言葉自体は、ミシンやオルガンなどと同じような舶来品と同じであり、近代になって西洋社会から輸入した単語である。
古来日本の文化の中でそれに対応する言葉は、慈悲であり、または、より大衆的な表現を使うと人情という言葉である。

たしか、このような内容であったのを覚えています。愛とはキリスト教文化圏の表現なのでしょうか?その中でも、とても高尚な表現の一つなのでしょうか?
神学をきちんと学んでいる訳ではないので、よくわからないのですが、
愛といえば、西洋人は違和感なくLoveとお手紙の最後に書いてみたり、またチョコレート大好き!と言う場合もI love chocolate!と言ってみたり、私たちが使う愛とは違うところで、しかもかなりに頻繁にloveという言葉が使われているような気がします。

しかし、仏教や神道の文化的背景のある日本で育った、コテコテの日本人である私の勝手な解釈ですが、日本語の「慈悲」と言う表現や、英語であればmercyのような表現の場合は、もっと壮大で、私たち人間が許すことの出来ないような罪も穢れも全て許すような、というよりはじめから許すという概念すら存在しないくらいスケールの神がかりな包容力、大きな懐を感じ、頻繁に常用されている愛という単語とは違ったイメージを私は個人的に持っています。

私の勝手な理解としては、昨今、使われている愛、loveは、神でもなんでもない生身の不完全な人間がする試みで、
慈悲、mercyは、神の包容力。人間の思考や理解を超えた神がかり的な広大な意識。
そう、自分勝手な解釈をしています。
そもそもLoveは、名詞と動詞の両方の活用があり、mercyは動詞にはならないことからも、動詞として実行するところに、人間の学習の余地が多分にあるという事なのかもしれません。

クラニオセイクラル、バイオダイナミクスにたとえるならば、愛、loveは、プライマリレスピレーション、原初の呼吸、
慈悲、mercyは、ダイナミックスティルネスというイメージがします。
ダイナミックスティルネスのお話は一度もしていませんが、またいずれ話題にできたらと思っています。

私のゴシップ知識が正しければ、ホイットニーさんが亡くなられた事を知った、元夫のボビー・ブラウンさんは、ステージの上で泣き崩れ、”I love you, Whitney”と言ったそうです。
正直、私は驚きました。
泣くほど愛していたのであれば、どうして彼女にハードドラッグを薦めたり暴力を振るったりしたのでしょうか?
真相も知らないくせに、全くもって、大きなお世話な話ですが、やっぱり、私も女性なので思わず、女性の味方をしてしまいます。

しかし、お二人がどんな関係性であったとしても、ボビー・ブラウンさんは、一人の不完全な人間として、ホイットニーさんを彼なりに不完全な愛し方で、本当に愛していたのかもしれないとそう思います。彼だけではなく、みんな人間は紆余曲折し、少しずつ成長しながら、愛を学んでいる途中なのかもしれません。

ですから、私も一人の不完全な人間として、ボビーさんを批判する立場にはないのです。

******************************

今、ここに生きている私は、私の両親の愛の結晶だと、そう思いたいですし、どんな子供も、愛されて歓迎されてこの世に生をうけるべきだと私は思っています。

しかし、私の勝手な"子供は愛されるべき"、という考えが、この人間界の中で当然である現実の状態であるのならば、セラピーはいらないでしょう。

親から子供へ伝わっていく愛は、それこそ、人間らしく伝えられていき、やがて、その子供も巣立ち、自分なりに人を愛していくのでしょう。

その循環の多くは家族を基軸に継承され続いていくのでしょうけれも、残念ながら、人間の不完全さがあるがために、時に愛情不足でその愛情循環が滞ってしまうことが無いわけでもないと思います。

また、愛情不足で不完全だからこそ、歌の歌詞の通り、生涯かかって自分自らの内なる愛に満ち溢れることを学んでいく必要があるというメッセージなのかもしれません。

たとえば継承されてきた愛の形が、たとえば、いびつに見えたとしても、それでも私も含めて関わる人達はそれぞれ不完全な人間として、その時のベストを尽くしていたと分かることが大切のように思います。

そして、私は自分自身の愛に対するdignity、お天道様に顔向けできるように、切磋琢磨しながら不完全ながらも、時に痛い思いをしながらも、ちゃんと学んでいます!と胸を張っていられる自分でいたいからこそ、この歌のメロディが何処からか聞こえてきたのかもしれません。

初めての日記的なブログです。
長文になりましたが、お読みくださりありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年3月11日月曜日

ニュートラル② 関係性のニュートラル お互いに楽で、生き生きとできる関係はwin win!

今回も、クラニオセイクラルの療術にまつわることから、普段の生活の役に立つかもしれない"関係性のニュートラル"についてご紹介をさせていただきます。

関係性のニュートラルとは、セラピスト(プラクティショナー)とクライアント(セラピーを受ける方)の関係性が中立であるという意味です。
つまり、どちらにも、精神的、身体的苦痛のない、負荷がかかっていない関係性と言う事が出来ると思います。
この中立さも、クラニオセイクラルの教えの初期の段階で学ぶ、重要な概念であります。

そして、同じように、この関係性のニュートラルの学びも生涯かかって学び続ける程の大きなテーマであるとも言うことができると思っており、また、関係性のニュートラルとは、同じく身体の状態に基づいた、心や精神の状態を表すことが多く、わかりやすく説明できるように、関係性のニュートラルが築けていない状態の例を少し挙げたいと思います。

・プラクティショナーが、クライアントに触れる際、クライアントさえ心地よければよいと考え、自分が多少困難な姿勢であっても我慢をして、犠牲心を払っている状態。

・クライアントがプラクティショナーに権威的な圧力を感じ、遠慮してしまい、不快な触れ方であるが何も言わず我慢して萎縮している状態。

そのほかにも、たくさんの状況が考えられますが、このような関係性のニュートラルが無い状態のまま、セッションを開始してしまうと、癒されるどころか、逆の効果が出てしまうことすらありえる、全くもって危険な状態です。

しかし、よく考えて見ますと、我々が生きるこの社会では、当たり前のように関係性のニュートラルが無い状況が多々あります。
おそらく、職場環境、雇用主と従業員の関係、上司と部下の関係
あって欲しくはありませんが、家族内での親子、兄弟、夫婦関係など
そして、大きなくくりではありますが、数々の国家間の問題を考えましても大いにニュートラルが崩れている状態であります。

クラニオセイクラルのセラピストは、ほとんど、セッション中に自分自身がニュートラルに入る訓練はできているでしょう。そして、クライアントをニュートラルにいざなう訓練もできています。もちろん私も、そのように教えていただきました。

しかし、そのニュートラルの関係性を、セッションから離れた場所で、クライアント以外の方々と築いていくことは、本当に大きなチャレンジです。

必ずしも毎回上手く行くとは限りませんが、それが築けたときは、自分にとっても、相手にとっても大きな財産になるということを経験できました。
その経験は、このクラニオセイクラルを学んで得ることの出来た大きな恩恵であると実感し、先生方や関わる人に心から感謝しています。

もし、クラニオセイクラルの経験から私が教えていただいた事を、現実の社会で生かせるように言い換えるとするのであれば、

それは、まず、自分自身がニュートラルであることが、今、目の前にいる人のニュートラルへの導入を助けることができると言うことができます。

以前のブログ、ニュートラル①やバウンダリー①でもお話していますが、
ニュートラルという自分の中の葛藤を含む、相反する感情の中心にある、静かな場所にたたずみ、適切な距離感や境界線を保ち、相手の問題と自分の問題を区別し、そして、自分の身体の状態を中心軸ミッドラインにいるのかどうかをもう一度、確認することなどを試み、

まず、自分から始めることが、相手を変えようとする前に行うべき価値ある心的な行いだと思います。

しかしながら、私はこうして、ニュートラルについて語っていますが、時に、怒ったり泣いたりする一人の人間としての感情を持っています。
ニュートラルになる手段を教わったからと言って、人間としての、感情に揺れない状態、または喜怒哀楽がない状態になるわけではありません。

ただ、ニュートラルに戻ることを教えていただいたことで、“ニュートラルの静けさの中にある変容を何度も経験しているため、ニュートラルの偉大さへの信頼を持っている”に過ぎないとも言えます。

私は、自分の内側に感情が込み上げた時に、その感情を自分のものとして、深く体感し、味わうようにしています。
それがポジティブな感情であろうと、ネガティブな感情であろうと、これは自分の感情だと、自分が慈しんで味わうことで、自分を大切にするという自己尊重の気持ちを込めます。

自分の感情を大切にすることができれば、自然に、目の前にいる人の感情を大切にすることができると信じているからです。
潜在意識の中では、自他同一性といって、自分と他人の区別が無いそうです。
��このお話につきましては、また機会があるときにさせてください。)

自分の感情を受け取れることが出来る、つまり、自分の感情を意識化することが出来れば、逆に、自分の感情に振り回されることがなくなります。
無意識下にある感情は、たくさんあるのでしょうが、少なくとも、今、自分で気がつくことができる感情からは、自由になることができます。

それを冷静に相手に伝えることも出来るでしょう。

感情の荒波の影響から少し離れて、お互いにとっての中立的な位置、つまり、静けさのポイントに立つ事が出来ます。
ニュートラルの静けさからの変容の恩恵を受けて、関係性がお互いにとって負荷がかからないものに、変容していく大きなきっかけとなります。

クラニオセイクラルではまた、ネゴシエーションと言って、クライアントとの関係性のニュートラルに入るための交渉、コミュニケーションをしていく方法を学ぶのですが、この学びも大変奥の深いものです。

コミュニケーションの方法は、言葉のみならず、たくさんの手段があり、そのツールがあればあるほど、自分を支えてくれるものであると思いますが、私にとってのコミュニケーションとは、自分の感情を大切にすることから始まるということであります。

最後に、自己啓発書として有名な「7つの習慣」という本に紹介されている第4の習慣「Win-Winを考える」についての内容を紹介いたします。
(Franklin Planner Organizer序文より引用 )

ここから__________________________
「Win-Winを考える」といのは、人に優しくすることでもなければ、手っ取り早い解決手段でもありません。これは表面的なやり方ではなく、内面的なもの、(人格)をベースに、本質的な人との相互関係や、協調関係の構築を目指すものです。

私たちの多くは、それまでの経験によって、自分の価値を比較や競争に基づいてはかるようになっています。誰か他の人が失敗すれば、自分の成功と捕らえるのです。

Win-Winは、人生を競争ではなく、強調の場としてとらえます。Win-Winは、あらゆる対人関係の相互利益をつねに探るという考え方と心持であり、互いの利益となり、互いに満足できる合意、または解決策を意味します
________________________ここまで
クラニオセイクラルの学びは、自然科学や芸術の中に満ち溢れていると以前、申し上げましたが、このような優れた自己啓発書の中にも、その本質があります。

ビジネスの現場で、どちらかが勝ち、どちらかが負けるというのは、当然のように行われておりますが、関係性のニュートラルではありません。
このWin-Winの考え方において、どちらかが負けてしまうような取引、Win-Loseまたは、Lose-Winになってしまう取引はしないNo dealという選択が提案されています。


ここから__________________________
Win-Winの考え方では3つの必要不可欠な人格の要素を持つと考えられています。
①誠実:自分の本当の気持ち、価値観に誠実であり、約束を守る。
②成熟:自分のアイデアや気持ちを表現し、他の人のアイデアや気持ちに対し、思いやりと勇気をもって表現する。
③豊かさマインド:全ての人に十分に行きわたるだけあると信じる。
��________________________ここまで
3つの必要不可欠な人格の要素においては、①自分の気持ちや、価値観に対して誠実であることが大切であると述べられており、この誠実さは、②の周囲の人々の気持ちや、価値観を大切にすることへつながる事が示唆されています。

そして、③豊かさマインド、全ての人に行きわたるだけあると信じるという表現がされていますが、これは、クラニオセイクラルでは、リソース(資源)という用語があり、類似した考え方であります。
また、この考え方についても、いずれご紹介できればと思っております。

ここから__________________________
多くの人々は、2分法で考えます。優しいか厳しいかのどちらかだと。しかしWin-Winはあなたに優しさと厳しさ、勇気と思いやりのバランスをとることを求めます。
________________________ここまで

まさに、ニュートラル、中立に対する心的な態度が表現されております。

関係性のニュートラルが成立するためには、まず、自分自身の状態がニュートラルであること、そして、そこから家族との関係性のニュートラルが確立され、それがやがて、他者をふくむ、社会とのニュートラル、やがては国家間のニュートラルに発展していくことが出来たらどんなに素晴らしいことでしょう。

しかし、このように、一筋縄ではいかない内容であり、私も試行錯誤の連続でありますが、こうして紹介させて頂く事が、万が一、お読みくださるあなたにとって、何かのお役にたてれば大変嬉しく思います。

ここまでお読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心よりお待ちしております。

中満整体

2013年3月2日土曜日

プライマリーレスピレーション 原初の呼吸①

プライマリーレスピレーションprimary respirationとは、クラニオセイクラルの専門用語です。
日本語では、第一次呼吸と訳されることが多いと思いますが、あえて、このブログでは原初の呼吸と呼びたいと思います。

私たちの多くは、出生と共に産声をあげて、初めての肺呼吸をするのですが、原初の呼吸はすでに、受精卵であるころから始まっています。
細胞が、一つから二つになるその瞬間でさえも、呼気、吸気のように、拡張したり、収縮したりして、細胞そのものや、細胞の分裂にまで原初の呼吸は働きかけています。

原初の呼吸についてのお話をする前に、少し、クラニオセイクラルの歴史を手短にお話したいと思います。

クラニオの綴りは、英語の接頭語であるcranio- 日本語では頭蓋という意味があります。
セイクラルとは、同じく英語でsacral、日本語で仙骨のことであり、クラニオセイクラルを訳すと頭蓋仙骨療法です。
英語であるのは、クラニオセイクラルが発見された場所は米国であるからです。
現在ではヨーロッパでとても発展しており、ドイツ、イギリスなどでは、保険治療でカバーされる療術です。

アメリカで生まれたこのような治療体系は、クラニオセイクラルのほかに、皆様のよくご存知のカイロプラクティスなどがあり、また、オステパシーと呼ばれる医療があります。このオステオパシーは、米国では医学の一つの分野としてすでに確立しており、大学での修士課程を終えて初めてドクター・オブ・オステオパシーの称号が与えられます。

クラニオセイクラルの父親とも呼べるウイリアム・サザーランド先生は、今から100年ほど前にアメリカでオステオパシーの勉強をされていました。当時、先生は、耳の上の側頭骨という骨が魚のえらの様に動いているのではないかとの仮説をたて、ご自分でヘルメットのようなものを被ったりして、脳の動きを研究されました。

それでは少し、脳の構造をとても大まかにお話します。

まず、頭に触れると髪の毛の下に、頭皮があります。その下には、頭蓋骨があります。
もっと奥には、大脳がありますが、この頭蓋骨と大脳の間には、脳脊髄液という液が流れています。直接脳が、ぴっちりと頭蓋骨にくっついていると、何らかの物理的な衝撃があったときに、直接脳にダメージを与えてしまうのですが、この脳脊髄液は、クッションのような役割を果たし、衝撃を吸収してくれるのです。

サザーランド先生が、側頭骨がえらの様に動いていると思われたのは、この脳脊髄液の働きに関係しています。

側頭骨のえらの様な動きは、脳脊髄液を通した、原初の呼吸の現われです。
脳脊髄液から、原初の呼吸を感じ取れるのです。つまり、脳脊髄液から、呼気、吸気を感じ取れるということです。

クラニオセイクラルのセラピーは、この脳脊髄液の原初の呼吸に大変関わりの深いワークであり、脳脊髄液から頭蓋骨に伝わった原初の呼吸の動きをセラピストは、手や身体などで感じ取るのです。

脳はいくつかの骨の集まりで、縫合によってくっついてしまっているので、動かないとされる考え方もありますが、実際、訓練されたクラニオセイクラルのセラピストは、施術を受ける人のコンディションが原初の呼吸をしているのであれば、たいてい、当然の様にその動きを感じ取っています。

この脳脊髄液から伝わる、原初の呼吸は、実際には、長さと広さがあります。
短いスパンで呼吸をすることもあれば、長い息で呼吸をすることもあります。

それでは、この、長い息で呼吸をし始める状態を、このセラピーのセッションの場所以外で感じ取れる場面についてのお話をしたいと思います。

しかし、これは、数多くあるクラニオセイクラルの専門書に記載されていたことでは全くなく、あくまで私の個人的な経験に基づく、私の原初の呼吸に対する理解でありますが、お読みくださって、なんとなく体感的に共感していただける方は多くいらっしゃるような気がしていますので、ここに紹介をいたします。

私は6歳から19歳まで書道を習っていました。
小学1年生から6年生まで、楷書を習います。
中学生になると行書といって、楷書より画一つ一つがくっついたような、流れがあるように見える字体を書き始めます。

主に、楷書を習っていた頃に、はねる、はらう、止めるなどの基本的な筆使いや、姿勢などを習い、この頃には、楷書の基本は概ねある程度出来上がってきている状態であります。

次に、行書ですが、これまでの基本を踏まえながら、文字に流れをつけて行くのですが、楷書体より、行書体の方が、実際書くスピードはゆっくりです。
行書ならではの筆使いを学びながら、練習していくのですが、最初はなかなか思う様にかけません。スピードがゆっくりである分、より、こちらの息使いと、筆使いがはっきりと書に現われます。
つまり、上手く書けない時は、はっきりそれが現れます。
そして、練習をすればするほど、時間が濃密になっていきます。

すると、ある瞬間が訪れます。
私の息使いと、筆の息使いの波長が合ってくるのです。
まるで、筆が呼吸をし始めたかのように、流れに乗り始めるのです。
この瞬間は、とっても気持ちがいいのです。
書が生き生きとしてきます。

そして、また、次の練習をしたときに、同じ流れに乗れる瞬間がやってくるのかというとそうではありません。
また、同じように訓練をすることになるのです。
しかし、また、ある瞬間にその波に乗る瞬間がやってきます。

2002年に米国へ旅した後に偶然知ったクラニオセイクラルの、セラピーを習うための初回のイントロダクションという、どんな施術なのかを体験するようなコースを受講しました。
指導された通りに、5グラムで、相手の人の腿に手を置いた瞬間、サーフィンのように、波に乗るかのような感触を味わいました。
それが、また、とっても気持ちがいいのです。
書道で味わった、あの、波に乗るときと同じ感覚でした。

そして、私はこのセラピストになる以前、ファッションデザイナーでした。
デザイン研究所にいた頃は、毎日のように絵を書き、作品を作る日々でした。
描いても、描いても、同じような色やシルエットになってしまって、全く前に進めないような時期があるのですが、また時間が濃密に感じられた後に、あの瞬間がやってきます。
手が呼吸をするのです。いや、全身が呼吸をするのです。
全てのかけらが一つになっていくように、統合されるように、作品のテーマが反映されるような絵が描けるときが来るのです。

絵が描けたら今度は、パターンです。型紙を引いて、人体の模型に着せて型紙を調節していくのですが、この時に、絵を描いたときの波に乗れないと、絵を描いたときの、波に乗っているような気持ちよさと感動が、全く実際の立体に反映されない、ただ色と形が同じだけの作品になってしまうのです。
絵を描いたときの、波に乗る感覚が来るまで、やり直しです。
しかし、絵を描いたときが最高潮で、また訪れないのではないかと心配になったりもしますが、一度波に乗れたら、意外にも絵よりいい立体が組めたりすることもありました。

私は、この波に乗る感覚が、原初の呼吸の現われだと信じています。

書道では臨書といって、王羲之や顔真卿などの歴史的国宝レベルの作品を見て、そっくりに真似をして描くという練習があります。
あの練習の目的は、書家の息使いを、今、臨書することによって、再体験をする練習だったのだと思います。
書家の息使いを再体験するとは、つまり、どのように原初の呼吸が書家を通して伝わり、表現されたかを自分の身体を使って、再体験するということです。
書には気が入っているだとか、精神統一をして書くなどといわれることがありますが、それはつまり、原初の呼吸をした息吹が、肉体を通って、書に反映されるということと同義だと思っています。

最後に、私はアイススケートの荒川静香さんがとても好きです。
たくさんの金メダリストがいらっしゃるなかで、2006年のトリノオリンピックで金メダルを受賞したフリープログラムの演技は、まさに原初の呼吸に乗っている状態でした。
荒川さんは、2004年にドイツでワールドチャンピオンになられた時点で、アイススケートの世界最高である技術を持っておられていたと思います。しかし、2006年では、技術を超えて、芸術の分野に足を踏み入れたまさに、身体を使った芸術作品でした。

2006年トリノオリンピック 荒川静香さんフリープログラム金メダル受賞

私は、身体に伝わった原初の呼吸を、書や絵、またはファッションデザインとしての作品に反映させていましたが、今度こそ、自分自身の身体を使った、芸術に触れたいとの思いで、2007年からヨガを志しています。2013年にもなりますが、ヨガの奥が深い事もあり、まだ基本的なことをマスターしようとしている状態です。
しかし、頻度はとても低いのですが、あの瞬間は訪れるのです。
指導を受け、何度も同じ型を繰り返し練習した後に、大きな波に支えられて、まっすぐ立ち、全身のバランスを保っているような感覚を覚えます。そして、波に乗って、深い呼吸と体の動きのバランスが自然にとれる瞬間が訪れるのです。

これを読んでくださっているあなたが、ご自身の専門分野にてこのような原初の呼吸の体験をされておられたとしたら、そしてまた、わかるなぁと少しでも共感してくださったらとてもうれしいです。

クラニオセイクラルをヒーリングアートと呼んでおられる先生もいらっしゃるくらい、クラニオセイクラルは芸術的な質を持っています。
そして、もし、あなたが芸術の分野を志しておられたら、私は、この原初の呼吸という全ての生命のエッセンスにたどり着くためのお手伝いができると信じています。

長文になりましたが、お読みくださってありがとうございました。
またのご訪問を心より、お待ちしております。

中満整体